墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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塚前古墳 福島県いわき市小名浜林城塚前

中田横穴を見学した後は、近年の調査で古墳時代後期においては東北最大規模であることが判明した塚前(つかまえ)古墳へ向かった。  

 

未知の土地へ行く際は、事前にグーグルマップの検索欄に「古墳」と入れてみると、誰かが登録していれば古墳が赤い点で示される。

塚前古墳は、たまたま中田横穴から常磐道・湯本ICへの帰路にあったので立ち寄ったが、行って初めて最大長120mもある前方後円墳と知った(残っているのは一部)

 

マップの指示に従って(途中で指示されたあり得ない細道は迂回)進み、「残丘」に到着。現地説明板は無かった。

 

上に祠があって古墳の雰囲気を漂わせている。

 

高さはしっかりあった。

 

階段が付いている。

 

祠は狛犬に守られていた。

 

四角く残っている墳頂。現地では、かつての形は見当がつかなかった。

 

周囲には新築の家が並ぶ。

 

以下はWikipediaの「塚前古墳」の項より。 

塚前古墳(2017年測量調査値) 前方後円墳(6世紀中頃)

墳丘長:95~120m、後円部径:53m、前方部長:54~70m、前方部幅:45~65m。

墳丘表面にて円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)、形象埴輪(蓋形・盾形埴輪)の破片が検出されている。他にも土師器・弥生土器が認められ、かつては杏葉の出土があったとも伝わるそう。埋葬施設は不明。

墳丘の構築手法は、外縁部に盛土を土手状に積み上げたのちに内側を土手上端まで盛り上げる工程を繰り返す「西日本的工法」が採られ、土嚢・土塊積みで盛り土するという後期古墳では有力者の墓に特化した手法が採用されているとのこと。

周囲に周溝(馬蹄形か)も持つ。

 

このあと訪ねた、いわき市考古資料館には塚前古墳出土の埴輪が展示されていた。中央は蓋(きぬがさ)形埴輪。

 

後で調べていて、こちらの「ハザードラボ」での記事にて、元の前方後円形の位置を知ることができた。

https://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/2/0/20171.html

 

残っているのは後円部の中央から左寄りの一部だった。

お向かいの駐車場くらいまでが元の後円部か。

 

北西側には丘があり、丘の上には若宮八幡神社が鎮座する。

 

前方部が伸びていた方向。

 

後円部の半分があったはずの南東側空地。

60m先には国道6号線(常磐バイパス)が通り、その向こう側に藤原川が流れている。

 

グーグルマップで俯瞰すると、海路で邪魔になるであろう出っ張り(その先端に塩屋崎灯台があり、すぐ裏に中田横穴がある)を迂回する陸路(藤原川・滑津川・夏井川ルート)上に立地することがわかる。

 

南東側から。かつては目の前まで後円部があったはず。 そして左の方に前方部が延びていた。

 

別の角度から。直径53mのかつての後円部は右の公園を含んで左に膨らみ、左奥の二階家の方まで、最大120mで前方部が伸びていた、はず。

 

群馬県の前橋天神山古墳も一部しか残らなかったが県指定。塚前古墳も早く指定されて残った墳丘がしっかり保存されることを願います。 

中田横穴 福島県いわき市平沼ノ内字中田

前回のつづき、この日の主目的地である中田横穴(なかたよこあな)へ。

いわき市のサイトには賢沼寺(弁天様)駐車場を利用とあったので、そちらへ向かう。

そこから13時の見学開始に合わせて、12時45分から20分間隔のマイクロバスが出るとあったが12時前に着いたので、同じように早めに着いた方と10分ほど歩いて現地に到着した。

http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1505865929046/index.html

 

その方は地元の人で、いつも目の前の国道を行き来するたびに、色鮮やかな石室を見たい思いを募らせていたそうだ。

中田横穴は2011年の東日本大震災前は毎年5月から10月の第二日曜に公開されていたが震災での中断が続いていて、このたび7年半ぶりの一般公開となった。

今年はこの日だけとなったが、今後も年に一度の公開を予定しているそうだ。 

 

県道15号沿いにある見学施設。着いたときには誰もいなかったが、すぐに係りの方が到着。

 

この横穴墓は昭和44年にこの道を敷設する工事で見つかった。南側方向。

 

北側方向。

 

その説明板。

中田横穴は、6世紀末に作られた横穴墓で、わが国の装飾横穴墓を代表するもののひとつです。県道新設工事中、昭和44年1月20日に発見されました。
横穴の内部は複室をもつ特殊な構造です。前室は後室よりも小規模で入口の幅も狭く2つの部屋の間にある玄門部には、排水のための溝があります。
後室の壁面には被葬者を覆い包むように、1辺約40cmの連続三角文様が赤色と白色で3段に描かれています。三角文様の原料は、赤色がベンガラ(酸化第二鉄)、白色は白粘土です。
副葬品には、わが国最大級の金銅製馬鈴をはじめ、装身具385点、武具747点、儀装馬具169点、そのほか鏡など、古墳時代を代表する遺物が多数出土しています。
奥行き:6.67m 
前室の長さ:2.00m 前室の最大幅:2.20m 前室の最大高:1.85m
後室の長さ:2.60m 後室の最大幅:2.80m 後室の最大高:2.28m
指定:昭和45年5月11日 所在地:いわき市平沼ノ内字中田

 

構造図。 

 

そのうちに「公開中」の看板が架かった。

 

最初のバスが到着する前だったが、遠くから来たということもあってか、その場で待っていた自分を含めた3人に声が掛かり、先に見学させていただけた。

 

窓越しに、鮮やかな赤と白の三角文様をしっかり見ることができた。

 

奥壁までは7m近く。三角形の一辺は40cmほど。1400年以上を経ても美しい赤色だった。 色と文様に大感動。

昭和44年まで未盗掘のままだったことや、土盛りではなく岩をくり抜いた空間であることなどにより、綺麗に残っているようだ。

 

ガラス越しでAFが合わず、マニュアルもうまく行かずにズームは失敗。

 文化庁のサイトで、写真が見られる。

 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/201146/1/2 

 

現地でいただいた資料にあった奥壁の写真。

 

奥壁側からの写真も。玄門の右の楕円は岩盤の層が浮き出たもの。

 

出土した馬具の写真も。 

 

非常に豪華な副葬品が納められていたことから、被葬者はヤマト王権と密接な関係を持っていたと推測されている。

ここから説明会用の現地パネル。

 

上記の装飾品をつけた馬の様子。

 

馬具の解説。

中田横穴墓の馬具
中田横穴部の数多い副葬品のなかでも特筆されるのは、豊富な金銅製の馬具類です。国内最大級の大型金銅製馬鈴をはじめ、鐘型杏葉や鞍金具、壺鐙飾板、雲珠、辻金具、鉸具(かこ)などは「鉄地金銅張」という鉄の地金(板)に金メッキした薄い銅板をかぶせた技法の優品揃いです。
これらの金銅製品は、先進的な新しい金工技術によって製作された資料で、金色の輝きは、今も十分に機能しています。この光輝く馬具を所有した被葬者は、ヤマト政権と密接な関係にある人物だったと思われます。

 

こちらは横穴墓発見当時の写真。

 

福島県内の他の装飾横穴墓についての解説もあった。

福島県内の装飾横穴墓
茨城県から東北地方南部の太平洋岸では、彩色された横穴墓がいくつか発見されています。
主に福島県の海岸沿いと宮城県に点在し、これ以外では県内の阿武隈川上流域で2例が確認されています。福島県内では、中田横穴墓の他に、国の史跡に指定された装飾横穴墓が3例あります。
泉崎村泉崎横穴墓、南相馬市羽山横穴墓、双葉町清戸迫横穴墓は、ともに7世紀に造営されたもので、渦巻き文と馬・狩猟図など共通する構図が描かれています。いずれも、東日本を代表する装飾横穴墓となっています。

泉崎村の泉崎横穴墓は年に一度の公開が継続されていて、2018年は、この日と同日の10月13日であったことを調べている今知った。

東北本線で白河の2つ先の泉崎駅の近く。来年はこちらを訪ねたい。

http://www.vill.izumizaki.fukushima.jp/page/page000646.html

 

南相馬市の羽山横穴墓は、4月、5月、9月、10月の第2日曜日(但し、翌日が祝日の場合はその祝日)に公開されている。

 

双葉町の清戸迫横穴墓は帰還困難区域にある。

上記のエントリを見返すと「羽山横穴墓をこの秋訪ねたい」と言っていた自分がいた・・・

 

 

中田横穴にての現地解説でも伺ったが、この周辺には他にも多くの装飾横穴墓があるという。壁の模様は円が描かれていたり、一面に赤が塗られたりと様々だそうだが、一番立派なものが中田横穴とのこと(中田横穴以外は見学不可)

 

検索していたら、いわき市教育委員会による発表資料(2013年)に行き当たったが、そこに周辺の横穴墓の壁画写真がいくつか載っていた。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/takamatsu_kitora/wg_01/wg_09/pdf/shiryo_3.pdf

 

見学施設の向かい側の風景。稲穂が広がっていた。

 

中田横穴(下の図の中央左・県道15号沿い)は海からは1kmほどしか離れていないが間に山がある。

右下(スマホ画面では枠外)の塩屋崎灯台は標高73mの立地だが、明治32年(1899)に開設され、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台ともなっている。

 

今回訪ねそびれてしまったので下の写真はグーグルアースから。

検索していて下記の記事を知った。

灯台の北側の平薄磯地区は3.11の津波で265世帯のほとんどが流され120名以上が亡くなられたとのこと。ご冥福をお祈りします。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/6995