墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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晴海橋梁(廃線鉄道橋)・春海橋 東京都江東区豊洲~中央区晴海

かなり以前にたまたま横を通りかかってから気になっていた鉄道橋(廃線)を見るために、豊洲近辺で出かけた。

 

地下鉄の豊洲駅で降りて、晴海通りを北西方向へ歩く。

ららぽーと豊洲への入口を通り過ぎたところにあった案内図(右上が北)

鉄道橋も地図に載っていた。

 

晴海運河を渡る晴海通りの「春海橋」

その左手に、かつて晴海埠頭へ伸びていた東京都港湾局専用線の跡がしっかり残っている。

 

橋のたもとに都立春海橋公園(の一部)

 

橋梁に残る線路がよく見える。

 

ズームで。対岸は中央区晴海。

 

以下はWikipediaより。

国鉄越中島支線の越中島駅(現越中島貨物駅)から豊洲石炭埠頭までを東京都港湾局専用線(深川線)として開業していたが、深川線の深川線分岐点から分岐し晴海埠頭までを東京都港湾局専用線(晴海線)として建設した際、晴海運河に架かる橋梁として1957年(昭和32年)11月26日に完成し、同年12月17日に供用開始した。
トラック輸送への転換による臨港鉄道の衰退により、晴海線が1989年(平成元年)2月10日に廃止となり、東京都港湾局専用線が全廃となった。本橋梁も同時に供用廃止となったが、撤去されずに当時の姿のままの遺構として現存している。なお、本橋梁の今後は人道橋や公園としての活用が検討されているが、老朽化が進んでおり修繕も必要であるとして、具体的な動きは進んでいない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%B4%E6%B5%B7%E6%A9%8B%E6%A2%81

 

線路は公園の手前まで。

 

背後はタワーマンション。

 

春海橋公園は運河沿いにららぽーとの方へ続いている。

 

手入れされた花壇もあった。

 

春海橋の歩道から。線路に生えた木は育っていくのか。

 

 

先ほどのWikipediaによれば「下路式ローゼ桁」という形式の鋼鉄道橋で、鉄橋部分の長さは58.8m。竣工 -は昭和32年(1957)11月26日で橋桁製作は石川島重工業。

 

柱の間に新豊洲変電所の円形建物。その右が豊洲市場(予定)になる。

中央に、ゆりかもめの新豊洲駅が見える。

 

中央区晴海側のたもと。広大な更地に続くが、線路の先は藪だった。

 

砂利しかない軌道上であるのに木々が。

 

そこから鉄橋を振り返って。

 

”むくり”の凸の丸みが、先端直前で”てり”の凹のカーブになるところに惹かれた。

 

キラキラのビル群が立ち並ぶエリアで、存在感を放っている”近代化遺産”。ぜひ「保存の上で活用」されることを願っています。

木曽呂の富士塚 埼玉県川口市東内野

前回のつづき。

この日の最後の目的地、有形民俗文化財として国の指定を受けている木曽呂(きぞろ)の富士塚へ。 

 

東浦和駅から見沼通船堀沿いに歩いてきて、見沼代用水東縁にかかる橋を渡ったところ(八丁堤側)

2本ある道の奥(右)を進まないと富士塚へ辿り着けない(車ではもう一本先を左折)

 

台地の縁に築かれたタイプ。

 

崖側に入口を塞がれた胎内窟があった。

 

下からの登山道を進む。

 

途中に胎内窟のもう一方の塞がれた入口があった。どちらの斜面もコンクリで補強されていた。

 

台地上への最後の上り。

 

上ってから振り返ったところ。強い日差しの一日だった。

 

 台地上からの標高差は5.4m。標柱は皇太子行啓(2006年)の記念碑。

 

山頂への階段。

 

山頂はシンプルで、祠的なものは見受けられなかった。火口の穴を模したゆるやかな窪みがあった。

 

山頂から西側。標高差は15mほどか。 

 

ズームすると見沼通船堀沿いの道が写った。

 

東側は台地上なので標高差は5mほど。

 

北側には社殿もあった。 

 

別ルートで下山。

 

講碑が並ぶ。

 

左の講碑には丸に参の字が書かれている。

 

 

麓に解説があった。

国指定有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
昭和55年4月24日指定
富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士山に登山できるようにと、安永9年(1780)、高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。
木曽呂の富士塚は、地元で”ふじやま”または”木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政12年(1800)に、富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ5.4m、直径20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるように火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
富士塚の麓には、文化2年(1805)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和4年(1804)の石燈籠、天保4年(1833)の石鳥居等、丸参講によって造立された石造物が多く残されている。
富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。
昭和57年2月 文化庁、埼玉県教育委員会、川口市教育委員会、蓮見武夫

 

実測図のアップ。

 

こちらの講碑にも丸参講の「参」の字。登山三十三度と刻まれていた。

 

社殿にも参拝。

 

社殿脇から見上げた山塊。

 

社殿前から鳥居方向。

 

鳥居の外側にあった説明板。内容は麓にあったものとほぼ同じだった。

 

鳥居の先は住宅地があった。富士塚敷地の右手には料亭があった。

左手には富士塚を寛政12年(1800)に築いた蓮見知重の子孫が経営する蕎麦屋があったことを、後で下記のブログで知った。

http://gosyuripo7.exblog.jp/24259008/