墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

青森県立美術館 青森県青森市安田字近野

三内丸山遺跡を見た後は、道路を挟んで南に隣接する青森県立美術館を訪ねた。

隣といっても、歩くと10分弱かかる。 

 

地上2階・地下2階の施設は2006年7月に開館。設計は青木淳

 

公式サイトに設計者のコメントがある。

三内丸山縄文遺跡から着想を得て、発掘現場のトレンチのように幾何学的に切り込んだ凸凹地面の上に、やはり凸凹形の白い煉瓦建物を覆いかぶせて、上向きの凹凸と下向きの凹凸が「まるで並びの悪い歯列かのように、気ままに、隙間を持ちながら噛み合わされている」ことが基本構成だそう。

http://www.aomori-museum.jp/ja/about/architecture/

実際、展示室を周っていると、一部に土の床や壁が露出する部分が見られた。

 

エントランス前には巨大な庇。

 

常設展は一般510円。別途企画展「アルヴァ・アアルト~もうひとつの自然」展を開催していたが、昨年葉山で見た展示だった。

 

コレクションの中心は”郷土”の作家だが、入ってすぐの大ホールにはシャガールによる巨大な舞台背景画がある。

 

バレエ「アレコ」の背景画(1942年)で、約横15m×縦9m。

 

このときの常設展示では、奈良美智の作品・インスタレーション棟方志功の版画、成田亨ウルトラ怪獣のデザイン原画、田澤茂の鬼や仏の彫刻、寺山修司・天井棧敷のポスター、石井康治のガラス作品、菊地敦己のブックデザイン、ブナコの照明器具などを各展示室で見ることができた。

http://www.aomori-museum.jp/ja/exhibition/125/

 

そして、一番人気(?)は奈良美智による「あおもり犬」

展示室側からはガラス越しに。ここからは出入り不可。

 

巨大なトレンチにて、下半身は埋まったままの犬。

 

近寄るには一旦外に出る。

 

非常階段のような通路へ。

 

来た道を振り返って。トレンチの底の迷路を歩いている気分。

 

そこを振り返ると、あおもり犬。

一瞬、人がいない時間帯ができた。

 

高さは8.5m。

 

薄目を開けている感じ。

 

自分の影を見ているか。

 

影だけ見ると埴輪のようでもある。

 

顔だけで5mくらいありそう。

 

ほっそりした背中は観音像のようでもあった。

 

ミュージアムショップは充実のグッズ。内部は撮影不可。

 

その近くに、ぴょこんと突き出た何かがあった。

 

回り込んでいくと「八角堂」とある。

 

その中心には奈良美智による「Miss Forest /森の子」という作品があった(2016年)

 

間合いがないので全部が収まらない。

 

外から見えていたのは頭のとんがりだった。

 

丸い鼻。

 

正面以外は壁が迫っている。

 

八角堂からエントランスへ戻る道。彫り込まれた土壁と、せり出した建物との間に設けられたスキマが絶妙だった。

三内丸山遺跡 青森県青森市三内丸山

前回のつづき。

三内丸山遺跡は縄文時遊館に入館し、トンネルのような通路を抜けてフィールドに出る。この時はガイドツアーに参加できた。

https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/information/facility/facility-info/

 

正面にはピクニックエリア。ちょうど小学生の一行が班に分かれて昼食中だった。

 

縄文時遊館への出入口を振り返って。

 

そこから200mほど、左へ園路を進むと、復元建物が並ぶ広場に出る。

 

上記から左に目を移すと、巨大な櫓や大型住居が。

 

ガイドさんの案内に従って、初めにトレンチが見られる覆い屋の中へ。地層の中の土器がそのまま埋まっている生の現場。

 

その先に、竪穴住居が立ち並ぶ。

 

土屋根はここにも。

 

掘立柱の建物「跡」も、復元展示されていた。

 

北東の隅には墓も。

大人の墓(土坑墓)
大人は地面に掘られた穴(土坑墓)に埋葬されました。土坑墓は道路の両側に向かい合うように列状に並んでいます。墓の中からは、副葬品として石器やヒスイ製のペンダントが出土した例もあります。

 

ガラス越しに実物を見学する。

ちなみに、平均寿命は30歳ほどだったようだ。

 

道の両脇に墓が並ぶエリアの先はムラの外、青森湾へとつながっていた。

 

墓のそばには高床建物。

 

貯蔵するものがあったのだろう。

 

そばには、ゴミ捨て場だった谷も。 

 

その説明板。かつてのゴミは、いま宝。

北の谷(低湿地)
北の谷は、縄文時代前期(紀元前約3900~3300年)にはおもにゴミ捨て場として利用されていました。
水分が豊富なため、通常残らない動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、編み物、寄生虫の卵などの有機質の遺物が良好な状態で出土しており、当時の環境や食生活がわかりました。また、土留め用に杭列が見つかっています。

 

ゴミや残土が積み重なって盛土状になっていた場所も。

北盛土
盛土は竪穴建物や穴などを掘った時の土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられており、小山のように盛り上がっています。ここでは発掘調査された当時のまま展示しています。一面に敷き詰められたような土器は縄文時代中期(紀元前約3000年)のものです。展示している部分はほんの一部ですが、盛土ではこのような状態で何層にも重なって広がっています。

 

覆い屋の下に発掘調査時の様子が。

 

近くの覆い屋には子どもの墓も。

 

その説明板。 

子どもの墓
子どもの遺体は、土器に入れて埋葬しました。棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、口や底が壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていました。中からはこぶし大の丸い石が出土した例もあります。

 

子どもの墓ばかりが集まる。

 

その後ろの立入禁止エリアでは、発掘調査が行われていた。

 

そして、今や著名な6本柱の櫓。

 

解説板がある。

大型掘立柱建物
この復元した大型掘立柱建物は、発掘調査の成果や柱穴の底の部分にかかっていた土圧の分析結果などから全体の大きさを推定したもので、柱間と同じ4.2m間隔で床を作り、3層の建物としています。屋根についてはさまざまな説があることから現在のところ復元していません。

大型掘立柱建物跡
掘立柱建物は柱穴を掘り、柱を立て、床や屋根を支えています。ここからは直径約2m、深さ約2mの柱穴が3個ずつ2列並んで見つかりました。これらの間隔はすべて約4.2mで、規則正しく配置されていました。柱穴の中からは直径約1mのクリの木柱が見つかりました。縄文時代中期後半(紀元前約2600年)のものと考えられています。

 

オリジナルの柱穴は、隣の覆い屋の下に展示。

 

残っているクリ材。水を抜くホースが見えているが、地下水が豊富なことと柱の根元を焦がしていたことにより腐らないで残ったのだそう。

 

復元に使った木材もクリ。日本にはこの大きさはなく、ロシアのソチから持ってきたのだそう。 

 

残った材の直径から高さを、重さ(土への圧)から桁材などがあったことを、根元の材の角度から内径があったことを割り出している、とガイドの方から伺った。

 

屋根があったか否かは議論になっている。

 

高い技術力があったことが、まざまざと感じられた。

 

ガイドツアーの最後は全長32mの大型住居。

 

内部の幅は10mほどあり、天井も高く広々としていた。

 

このような大型建物は集落の中央付近から見つかることが多く、集会所・共同作業所・共同住宅などの説があるとのこと。

 

大型建物の南側の施設(現在は収蔵庫?)が、おそらく以前に来た時の出土品展示施設だと思われる。