3連休初日の土曜日、少し遠出の古墳探訪をした。
下記の関東古墳探訪ベストガイドにも掲載されている”著名”古墳。
場所は高崎線熊谷駅の西7km、深谷駅の南7kmほど。秩父鉄道の明戸駅の南1km弱だがその間を荒川が流れており、橋まで2,3kmとかなり遠回りになる。
関越高速に乗って花園ICで降りて20分ほど、カーナビにあった印を目指していくと下記の場所に出た。
つきあたりに説明板があった。
鹿島古墳群 所在地 大里郡川本町鹿島
荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約2kmにわたっている。
現存する古墳56基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
昭和45年に圃場整理事業に伴い県教育委員会により27基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で、玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、2対1となり30cm(唐尺)の定尺となるものが認められている。
出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環が認められている。
古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、7世紀初頭から8世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和47年3月21日、県の史跡として指定されている。
平成11年9月 埼玉県
そこから右方向。
左方向。
その先の様子がわからないので一旦引き返して近くのお墓の隣に車を停めさせていただいた(実際は先の右側、古墳公園の東端にきちんとした駐車場があった)
お墓の隣の土盛り。これも古墳であると後で知った。
さきほどの場所まで来てまず左に向って歩いた。秩父の山々が近かった。
道沿いに次々と円墳。
養鶏場のある農家の庭先のようになった。正面のワンちゃんが激しく吠えるのでここで引き返した。この辺りも古墳群であったことをあとで知った。
東に向って歩き出す。
途中に古墳敷地内へ垣根が開いている場所があったので、そこから中へ入る。足首ぐらいまでの下草がある場所が多かった。
最初に上がらせていただいた円墳。
墳丘から荒川の方向。
ロープで囲われた墳丘もあった。
崖側に半分削れた墳丘もあった。
ちらちらと荒川が見えた。
川へ向う小道があったので崖を降りてみた。
崖下の様子。
降りてきた位置を見失わないように振り返る。
背丈ほどの笹薮の中の道をおそるおそる進む。
その先には広い河原があった。
上流には山も見える。
河原の中ほどから。
川底に大きな岩盤があって浅瀬のようになっている場所があった。
遠くには屏風のような山塊も。
左が上流。
振り返ったところ。
荒川に沿った段丘上に古墳群が2kmにわたって連なっている。古墳時代はこの川が物流の「幹線」であり、そこからよく見える位置に墳丘が築かれたのだろう。
豊富な河原石は石室築造や葺き石に使われたはず。
戻り口。よくみると誰かがつけたビニールの目印があった。
段丘上に戻って再び古墳群を廻る。「古墳公園」の敷地の幅は狭いところでは20mぐらいしかない。
ロープで囲われた円墳。
そこには「55号墳」の表示板が落ちていた。
別の円墳。
その墳丘からの眺め。
別の円墳。
こちらも別の円墳・・だったはず。表示板がないので後で見ると区別がつかない。
左の崖下が河川敷。右の杭の先は畑。
進むにつれて崖下の河川敷の幅が広くなってきた。
夏場はジャングルか。
小さな祠があった。
こちらも墳丘。
扉の開いた金庫が落ちていた。
なお、埼群古墳館さんのサイトでは、きちんと何号墳かまで同定されています。
これは真似できません。
つづく。