墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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酒列磯前神社・磯崎東古墳群 茨城県ひたちなか市磯崎町

前回エントリの東海村での講演会の前に、ひたちなか海浜鉄道沿いの古墳をいくつか訪ねた。 

最初に向かったのは、酒列磯前(さかつらいそざき)神社。以前に川子塚古墳を訪ねた折、当神社の社叢に墳丘があることを何かで見た覚えがあったので。

 

常磐線特急「ひたち1号」に乗って、水戸の次の勝田駅で下車。

改札を出ずに、上りホームの脇が乗り換え口。

 

20分ほど待って一両編成が到着。

 

途中の那珂湊駅では、ホームで野菜の販売が行われていた。

 

なかなかの人気。道の駅ではなくて”駅の駅”?

 

那珂湊駅の構内には、お休み中の車両もいくつか。

 

終点の一つ手前の「磯崎」で下車。こちらのほうが神社に近そうだったので。

磯崎のロゴには、さつまいもの絵が入っているが、どの駅も個性的なデザインで見ているだけで楽しかった。

常磐大学の小佐原孝幸氏が手掛けたようだ。

http://www.g-mark.org/award/describe/43275

 

磯崎駅から阿字ヶ浦駅へ向かう車両。

 

やってきた方向を振り返って。

空が広かった。

 

駅舎を外から。

 

観光案内には古墳の記載は無かった。近くの海岸には中生代白亜紀終末期(約8000万年前)の地層が岩礁群として露出しているとのこと。

 

住宅地と畑地が混在するエリアを抜けていくと神社手前に公園があり、ポコポコと土盛りがあった。

 

現地に説明板は無く、検索しても解説に行き当たらなかったが、後でぺんさんのサイトにて何基かを同定することができました。

https://pennihonshi.blog.fc2.com/blog-entry-670.html

 

さらに後で、上記の参考資料に「ひたちなか埋文だより 第38号」(ひたちなか市埋蔵文化財調査センター発行)とあるのを見て、そういえば以前に同センターでいただいた現物があったはず、と探し出すとマップが掲載されていました。

 

現地ではわからずに、とりあえず目立った土盛りを撮っていた。

右奥は、磯崎東古墳群25号墳。左の木陰に26号墳。

 

振り返った道路脇に160号墳(?~上記地図からは、そう読める)

 

公園内側から見た160号墳。

 

左が23号墳、右奥28号墳。

 

左が143号墳、右23号墳、中央奥に25号墳(いずれも上記のマップに基づいているつもりですが、確証は持てません)

埋文だより38号には磯崎古墳群の解説もありましたので下記に引用します。

磯崎東古墳群は、川子塚古墳の東、磯崎小学校の周辺に位置しています。古墳の数は、消滅したものも多く正確な数は判りませんが、1950年の調査では54基の古墳が確認されています。群を構成する古墳は、直径約20mの円墳が主体で、第33号墓のみが全長40mの帆立貝形古墳です。この古墳は、川子塚古墳と同じく石が敷かれていました。1989年に調査された第30号墓では、3つの石室が並んだ状態で検出され、その中からは鏡や大刀、鉄鏃、骨鏃、刀子などたくさんの遺物が出土しました。2011年には海岸を臨む崖の一部が崩れて、石室が出現しました。石室の中には、壮年の女性一体が埋葬されていました。2012年には、磯崎小学校の校庭を調査し、直径約15mの円墳と小型の横穴式石室4基を確認しました。円墳の埋葬施設は横穴式石室で、天井石は失われていましたが、石室からは人骨や勾玉が出土しています。
古墳の時期は5世紀後半から7世紀中頃まであることが判っており、市内でもっとも長い期間、古墳が造られていた古墳群と考えられます。

 

公園の背後には「ホテルニュー白亜紀」があった。日帰り温泉もあるようです。

 

隣の看板は「自然公園特別地域」を表すものでした。

 

ホテルの敷地には墳丘は無さそうだったので外観だけ。

 

振り返った先には、土盛りが見え隠れする社叢があったが立入禁止。

 

左(西)に回り込んで、神社境内入口へ向かう。 

 

境内案内図。古墳についての記載はなし。

由来には、酒列磯崎神社は平安前期に大洗磯前神社と同時期に創建され、明治中期には同時に国幣中社となったとあった。

 

荘厳な拝殿に参拝。

 

軒下彫刻が大変見事だった。

 

本殿側へ回ってみる。

 

玉垣の向こうに墳丘があった。13号墳か。

 

社務所の壁には、40以上の岩礁名が示されたパネルが。

 

鳥居から出る際に、樹林のトンネルに気づいた。

 

トンネルを形作る主な樹木はヤブツバキ。

 

樹叢は県指定の天然記念物。

茨城県指定天然記念物
酒列磯前神社の樹叢
酒列磯前神社の創建は斉衡3年(856)であり、元禄15年(1702)に現在地に遷宮された。
酒列磯前神社の境内林は、海洋による温暖な気候によって生育が促された暖帯性樹叢の一つと位置づけられる。参道両側には、樹齢300年をこえるヤブツバキやタブノキの古木が点在し、さらにオオバイボタ、スダジイ、ヒサカキなどの常緑広葉樹が生育している。また、本殿脇から背後に広がる境内林は、スダジイ、タブノキなどの高木層と、ユズリハ、モチノキ、ヤブツバキ、シロダモなどの亜高木~低木層で構成されている。
このような規模で保存されている例は希であり、この地域における本来の自然植生の姿をととどめた自然林として学術的にも貴重であるといえる。
指定日 平成17年11月25日
設置者 ひたちなか市教育委員会 

 

拝殿側を振り返って。 

 

そのあたりから北側へ降りる参道もあった。

 

港の景色に誘われて下る。

 

下った先の車道に沿って、神社・古墳がある高台を回り込む(右奥から歩いてきた)

 

道路から波打ち際へ階段を降りた。北側の常陸那珂港方向。

 

ズームすると火力発電所が。

 

東に広がる太平洋。

 

波は少し高かった。

 

道路に上がってさらに進むと、こちら側にも参道が。

 

少し進んで振り返って。

 

上って行くと右手側が樹林に。

 

覗き込むと、結構大きな墳丘も。

 

これは5号墳か。

 

さきほど見たヤブツバキのトンネルをくぐって、参道西端から。

 

そのすぐ北側に、比観亭跡という史跡があった。

 

入っていくと石碑が。

 

説明板も。

ひたちなか市指定史跡
比観亭跡
歓声2年(1790)11月、水戸藩第六代藩主徳川治保は、酒列磯前神社を訪れた際、見晴らしの良い小高い丘から眼前に大洋を一望し、北に白砂青松の海辺を隔てて、はるか阿武隈の山地をみることができる景色に感動した。
そこで治保は、この高台に「お日除け」(あずまや)を建てることとし、自身で9尺四面(約2.7m)の土地を画して建設を命じた。
翌3年1月、寺社手代小川勘助、郡方手大久保常衛門らの立ち合いで建設がなされ、比観亭と名付けられた。屋根は草葺きであったという。比観亭に掲げられた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり、これを桜の板に彫刻したものである。現在、扁額は酒列磯前神社に保管されている。
指定日 昭和43年1月16日
設置者 ひたちなか市教育委員会 

 

振り返った現在の眺め。

「初公開!新発見の武人埴輪 埴輪が語る古墳時代の東海村」講演会 @茨城県那珂郡東海村

令和2年2月2日、埴輪の講演会を聴きに茨城県の東海村へ出かけた。

 

下車した常磐線の「東海」駅。

 

講演会場は「東海村産業・情報プラザ」、駅から100m(写真中央左)

 

200人程入る会場は、ほぼ満席で熱気に包まれていた。

幕が上がると本日の主役がスポットライトを浴びながら登場。

 

明かりがついて、この日の主役の2体。

左が三角巾を被る人物埴輪(現高80.2㎝)で、右が笠を被る人物埴輪(同41.7㎝)

 

どちらも平成20年に、石神町の(狭い範囲での)下水道工事中に出土。

その後に、出た場所は径13mの円墳の周溝であることが確認され、小字名から「外ノ内古墳」と命名されている。
平成30年に報告書が出来たばかりでこれまで公開されておらず、今回のお披露目もこの日だけ。

2021年7月にオープンする複合施設「歴史と未来の交流館(仮称)」で常設されるようだ。

交流館については下記を。

https://www.vill.tokai.ibaraki.jp/material/files/group/24/59d5c9800e410.pdf

 

上記の埴輪の左右にも、1体ずつ舞台に並んでいた。

こちらは茨城県指定文化財の人物埴輪(舟塚1号墳出土・現高78.5㎝)

この日の主役ではなかったが、形も彩色も美しい埴輪であることが遠目にもよくわかった。

会場でいただいた「東海村文化財マップ」に当埴輪の解説が。

三角形の天冠をつけ、三角板の短甲を思わせる文様が全面に見られ、やや誇張した草摺がスカートのように広がって表現される。顔には赤や黒味の着色があり、髪は美豆良に結われ、腕には手甲がつけられている。造りは極めて精巧で、本県を代表する埴輪である。 

 

東海村指定文化財の武人埴輪は動燃東海事業所地内から出土。現高62.5㎝

動きのある姿勢をとっているようだった。

この埴輪も前出のマップに解説あり。

衝角付冑を被り、左腰に太刀をさし、挂甲を着用し籠手を装着している。太刀及び武具には青色顔料が塗られている。6世紀中葉の埴輪と考えられ、県内でも有数の精巧品である。 

 

ちなみに東海村は久慈川河口の南岸に位置し(南に隣接する”ひたちなか市”は那珂川河口の北岸)、それほど広くはない36㎢の村域には99基の古墳が確認されているそうだ。

 

講演会のタイトルは「埴輪が語る古墳時代の東海村~埴輪の世界を読み解く~」で、講師は川村学園女子大学の塩谷修先生。

 

前半は埴輪の起源やその意味についてで、後半が盾持ち埴輪と、埴輪窯とその供給エリアについて。

後半のお話が大変興味深かった。

 

盾持ち埴輪は、古代中国の方相氏(前漢の「周礼」)の思想、つまり鬼を払って墓を守る者、あの世・神仙世界で被葬者を守る者と関連し、その思想は奈良時代の律令にも「方相」として記され、今でも続く節分行事の追儺(おにやらい・ついな)につながっていく(と、理解しました)

 

埴輪窯(埴輪の生産地)については、戸ノ内古墳出土の2体が舟塚1号墳の県指定埴輪と同じ小幡北山型(ひたちなか市の馬渡埴輪製作遺跡や茨城町の小幡埴輪窯跡で生産されたもの)で、小美玉市の舟塚古墳出土の埴輪も同型であるとのこと。

「型」は土の質だけでなく、作り方(上半身・下半身を別々に作る小幡北山型、最初に腕を木芯で作る、つまり焼くと芯部分が中空になる久慈型)の違いに特徴がある。

点在する専門製作地から、かなり広域に埴輪が供給されていることにも興味をそそられた。

講演会終了後に舞台に上がって撮影できる機会が設けられていましたが、自分は帰りの電車の時間が迫っていたので次の機会としました。来年夏に交流館が出来たら再会したいと思います。

 

ホールの外では、いくつかの埴輪が展示されていた。 

力士の埴輪は石神小学校(中道前古墳群?・6世紀代)と伝わるもの。

 

太ももが立派。

 

芽山(かやま)古墳(中道前5号墳・6世紀前半)出土の「太刀を担ぐ軽装武人」

 

この埴輪は、塩谷先生の講演では担いでいるのは弓のようでしたが、見間違い(聞き間違い)かも知れません。

 

肩に残る、担いでいるモノの部分。

 

同じく、芽山古墳(中道前5号墳)からの盾持人埴輪。

 

その後ろには、円筒埴輪片や動物埴輪。

 

 戸ノ内古墳出土埴輪片(形象埴輪・円筒埴輪) 

 

芽山古墳(中道前5号墳)からの、馬(中央)とイノシシ(左)、右は石神小学校からと伝わる犬(?)

 

講演会が始まる前に、近辺の古墳巡りもしました(次回につづく)