墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

若王子古墳群 静岡県藤枝市若王子

前回のつづき(写真多いです、49枚)

この日の最後に訪ねたのは藤枝市の若王子(にゃくおうじ)古墳。

静岡駅から西へ東海道線で5駅、藤枝駅で下車し、バス(30分に1本)で9つ目の蓮花寺池公園入口で降りる。

バス停から5分ほど歩くと蓮花寺池公園に到着。

 

市のサイトによれば今から400年以上前、山あいにあった沼地を周辺の村民が農業かんがいのために堤防と水門を築いて池とした。

公園内には藤枝市の花である藤260本や桜1300本、梅380本などが植えられている。

http://www.fujieda.gr.jp/contents/NOD250/

 

池のほとりには藤枝市郷土博物館・文学館が建つ。

 

郷土博物館・文学館は一般200円で両方を見て回れる。博物館の方は若王子古墳群の出土物など大変興味深い展示がある。このときは「静岡ゆかりの名刀」という企画展も開催されていた (12/17までで終了)

文学館の方では藤枝を代表する4人の作家として小川国夫(作家・書斎の再現あり)、藤枝静男、村越化石(俳人)、加藤まさを(抒情画家・詩人)らの展示が見られる。

http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/19/20/1445916359667.html

 

面白かったのは陣羽織(左)の着用体験(ここのみ撮影可)

身につけてみると、ずっしりと重かった。

 

屋外には小さな蒸気機関車が一両展示されていた。

駿遠線B-15蒸気機関車
昭和初期、軽便鉄道は、蒸気機関車から性能がよく煙も出ないガソリンカーに変わろうとしていました。ところが、太平洋戦争が始まりガソリンの入手難から、蒸気機関車が復活し、戦後まで活躍したとされます。
この軽便用蒸気機関車は、戦時中に設計され、戦後の昭和23年になって入線した戦時規格形機関車であることが特徴です。現存する唯一の駿遠線蒸気機関車でもあり、立山重工業製(重量8トンB型タンク式)です。駿遠線では、昭和27年に蒸気機関車の使用は終了したとされ、現在では戦後の混乱期の輸送を支えつづけた郷土のシンボルとなっています。

 

「戦時規格」ということで鋼板が薄い印象だったが逆に復元はしやすいのでは。

駿遠線(すんえんせん)という線を始めて知ったが、この近くの岡部から藤枝を通って大井川を渡り牧之原台地の南縁を回って袋井まで抜ける、全長60km超の日本一の距離の軽便鉄道が一部は昭和40年代まで走っていたとのこと。

検索するとノスタルジックな画像が沢山あって惹き込まれてしまった。

http://www.filmscan-print-s.com/0509-SIZUTETU-SUN_EN_SEN.html

 

博物館の見学後に若王子古墳群を目指した。ちょっとしたハイキングになる。

 

池の周囲の散歩道を進む。途中に長大な滑り台があった。 

 

池から離れて谷戸を登る。振り返ると家並みの海。 

 

緩やかな車道もあるが、ショートカットの歩道をさらに登る。 

 

古墳群直下に到着。

 

そこにあった説明板。

若王子(にゃくおうじ)古墳
この古墳群は、旧益津郡の大半を見渡せる見はらしの良い場所にあります。海抜110m程の尾根上の平坦地を中心に28基の古墳が密集して分布しています。古墳は一辺10~18mの円墳または方墳で、5世紀から6世紀にかけてつくられたものです。古い時期の古墳は、遺体を入れた木棺を直接地下へ埋めたものですが、6世紀の中頃からは石を積み上げて石室をつくり、その中に遺体を葬るようになりました。木棺や遺体はくさって残されていませんが、銅鏡や首飾り、鉄剣や土器などの副葬品が多数発見されています。なかでも、12号墳から出土した車輪石(石製の腕輪)は、大和地方を中心に分布する貴重な資料です。このように、古墳の立地や出土遺物などからみて、若王子古墳群はこの地域の有力な豪族の墓とみられます。また、5世紀代の古墳が密集してつくられているのもこの古墳群の特徴です。
(若王子古墳群は昭和57年に発掘調査されました。出土品は郷土博物館に展示してあります)

 

 まずは1号墳の墳頂へ。素晴らしい、墳丘からの眺め!

 

パノラマで東~南東方向。標高は110m。志太平野が一望できる。目の前が藤枝市、その奥が焼津市。

 

眺望が記された説明板。

古墳群は尾根上に1・2列に全長160mに渡って28基が密集して連なっていた。古墳時代前期から後期まで200年以上に渡ってこの地での埋葬が続いたということは、この地域が長く安定していたという証左か。

静岡県指定史跡 若王子古墳群
平成7年3月20日指定
古墳時代前期~中期(4世紀末~5世紀)の木棺直葬墳23基、古墳時代後期(6世紀~7世紀)の横穴式石室墳5基からなる古墳群です。
標高約110mの富士見平と呼ばれるところに一辺約10~18mの大きさの古墳が南北につながっていますが、この時期の古墳がこのように密集して造られることは全国的にも珍しいものです。
古墳には土器・鉄製の武器・玉類・鏡などが副葬されていましたが、とくに車輪石と呼ばれる石製の腕輪は貴重な出土品です。
ここからの景色はたいへん素晴らしく、天気がよいときには西は牧之原大地・大井川、東は伊豆半島・富士山まで遠望できます。志太平野に広がる志太郡衙跡、郡遺跡(益頭郡衙)田中城などの数多くの遺跡を見渡すことができ、このような場所に造られるのは古い時期の古墳の特徴です。
古墳群は盛土の下にそのまま保存されており、古墳からの出土品は郷土博物館で展示しています。 

 

上記の写真の説明板によれば、中央やや左の山が高草山。その左、V字の谷を経て潮山。

高草山の向こう(東)側が静岡市になる。

 

高草山と潮山との間をズームで。晴れていれば中央のV字の向こう、北東の方向に富士山が見えるはずだった。

 

こちらの「蓮花寺池公園情報サイト」には富士山がくっきり写っている。

http://rengeji.joho117.com/300/310/

 

1号墳の墳頂には竪穴式の埋葬部2ヶ所の位置が石で示されていた。

 

1号墳から南側斜面。19号墳、12号墳、13号墳が連なる。

 

1号墳の墳頂にはもう一枚、外向きの説明板があった。

一番眺めがいい場所にあることが、若王子古墳群中で最も有力な豪族の墓と推測される大きな要因でもあろう。

若王子1号墳
直径18m、高さ1.5mの円墳です。埋葬施設は墳丘中央部からほぼ平行して並んで発見された割竹形木棺と箱形木棺の2棺です。もちろん木棺そのものは残されていませんが、鉄剣、鉄斧、鉇(やりがんな)、勾玉、管玉、銅鏡、土師器など豊富な副葬品が出土しました。
古墳の立地、墳丘の規模、副葬品の内容などからみて、5世紀初頭につくられた若王子古墳群の中でも最も有力な豪族の墓とみられます。
(出土品は郷土博物館に陳列してあります) 

 

隣のあずま屋から1号墳。

 

グーグルアースでも古墳群ははっきりわかる。

 

あずま屋の先に2号墳。

 

反対側から2号墳。あずま屋の下にはかつて23号墳があったようだ。

 

2号墳の隣には、この地が富士見平と呼ばれるいわれとなった室町期の逸話が書かれていた。

富士見平のいわれ
永享4年(1432)、室町幕府の第6代将軍足利義教は、敵対する鎌倉公方・足利持氏のようすをさぐるため、富士山見物という名目で駿河へやってきました。9月10日に京都を出発、17日には藤枝の鬼岩寺に一泊したのでした。
地元の伝説では、この時将軍義教がこの山の上から富士山をながめたというので、富士見平とよばれるようになったと伝えられています。
その後、文明5年(1473)のことです。釈正広という有名な歌人が京都から旅をして藤枝の長楽寺にとまったことがありました。この人は、この富士見平ではじめて富士山を見、感動して和歌をよみました。
「富士はなお上にぞ見ゆる 藤枝や 高草山の峰の白雲」 

 

その向かいあたりにあった古墳群の説明板には車輪石の大きな写真があった。車輪石は12号墳から出ているが、卵形のものの出土地としてはここが東端となるそうだ。

静岡県指定史跡 若王子古墳群
平成7年3月20日指定
所在地 静岡県藤枝市若王子字上ノ平1015番地他
所有者・管理者 藤枝市
説明
若王子古墳群は古墳時代前期(4世紀末から5世紀)の木棺直葬墳23基および古墳時代後期(6世紀後半から7世紀)の横穴式石室墳5基からなる古墳群です。丘陵の尾根上にまとまって築かれているのが特徴です。副葬品のうちで注目されるのは車輪石(石製の腕輪)で、卵形をしたものの出土地としては最も東に位置しています。
出土した資料は藤枝市郷土資料館に展示・保管されています。 

 

さらに北側へ。

 

尾根の西側に7号墳。

 

その説明板。

若王子7号墳
直径14m、高さ1mの円墳です。埋葬施設は全長5.5mの割竹形木棺で、棺内からは大刀、刀子、鉄斧、鎌、鉇(やりがんな)、鉄鏃、勾玉、土師器などが出土しました。その出土状態からみて、1つの棺に2人が同時に埋葬されたものと考えられます。

 

さらに8号墳、9号墳。

 

9号墳と10号墳。

 

一番奥の6号墳。

 

6号墳の南側の24号墳。

 

24号墳の墳頂から南側。手前から5号墳、4号墳、3号墳、2号墳と続く。

 

ひとつ南の5号墳の上へ移って。4号墳、3号墳、2号墳、1号墳が見える。

 

5号墳から見た8号墳。

 

北側の山並み。

 

 3号墳から北側、4号墳、5号墳、24号墳。

 

2号墳の墳頂にて。駿河湾の先には伊豆半島。

 

今度は1号墳から南の斜面へ。ベンチがあるのは19号墳。 

 

 道の西側に細く残る17号墳、16号墳、15号墳(手前、北側から)

 

12号墳の墳頂へ。 

 

全長6.9mの舟形木棺があった跡が示されている。

 

12号墳の説明板。

若王子12号墳
墳丘は南北に18m、東西に11mの長方形をしています。埋葬施設は全長6.9mの舟形をした珍しい木棺で、車輪石、鉄剣、鉄鏃、勾玉、管玉などの副葬品が出土しました。車輪石とは畿内を中心に分布する腕輪形の宝器(石製品)で、若王子12号墳は分布の東限を示す貴重な資料です。
(出土品は郷土博物館に陳列してあります)

 

12号墳から見上げる19号墳とその奥の1号墳。

 

斜面の一番下・南端の13号墳。 

 

その墳頂。

 

15号墳、16号墳の墳頂にも埋葬部の跡が示されていた。

 

 最後に見上げた古墳群。

公園として整備されていて見学しやすく、眺望の非常に良い古墳群だった。 

 

郷土博物館サイトのpdf 

http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/25/nyakuouji.pdf

 

下山ルートは梅林の中を降りた。花の時期にも来てみたい。 

 

帰路、バスに乗る前、グーグルマップにあった「旧藤枝製茶貿易会社の社屋」 へ行ってみた。現地の説明板等は無かった。

 

藤枝市観光協会のサイトによると、藤枝製茶貿易会社は明治34年(1901)に設立されている。建物は釘を使わない伝統工法で、中には拝見場、荷受場、再製(仕上げ)加工場などがあり、輸出用に製茶されたそうだ。

http://museum.ichikawaen.co.jp/history/chamachi.php

明治期の日本を支えた輸出品は生糸とお茶。北関東では「糸関係」の明治建物が多くあるが、ここではお茶関係がひっそりと残っていた。

 

2017年最後の、素晴らしい古墳旅になりました。

惜しむらくはレンズに付いたゴミに朝から気づけなかったこと。レンズ面の確認は写真の基本ですね。再訪せよとのお告げでしょうか・・・

八幡山山頂古墳 静岡八幡神社 静岡県静岡市駿河区八幡山

前回のつづき。

静岡浅間神社からは静岡駅の南東にある八幡山古墳を目指した。グーグルマップで知った場所。

 

この日の朝、谷津山古墳から良く見えた、島のような丘の上にある(再掲)

 

安倍街道の停留所からバスに乗って静岡駅まで出て南口へ向かい、歩くと18分と出たのでタクシーを利用。住宅街の中に急に山が現れた。

 

拝殿の後ろに急な石段が見える。

 

石段には立入禁止のロープがあったので、横の道を上る。 

 

石段を上から見下ろしたところ。これはころげおちそう。

 

そこを振り返ると本殿。こちらに参拝した。

この本殿の左側に横穴式石室(八幡山2号墳・八幡神社古墳)が開口していたことを、後で「静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド」さんのサイトで知った。

墳丘をほとんどもたない古墳時代後期後半の横穴式石室墳で、明治22年の本殿新築時に発掘され須恵器、勾玉、丸玉などが出土。この地域を支配していた豪族、有度郡牛麻呂(うとべのうしまろ)の墓とする伝説があるそうだ。

http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/3717379.html

 

このときは2号墳の存在を知らず、山頂方向を目指して登った。

 

開けたところに出ると「八幡山城」の解説板があった。 

八幡山城
応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿府防衛の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明8年(1476)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ1.5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方安倍川を経て持舟(用宗)城まで5km、それらはすべて指呼の間に一望することのできる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当っていた。長享元年(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄12年(1569)武田信玄の第二回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後廃城となったと思われる。城址は標高63.7m、南北500mの独立丘陵で、近年公園となり、大きく変貌したが、今なお曲輪や空堀などの遺構を見ることができる。
昭和60年1月 静岡市

 

なだらかで広い山頂は公園になっている。この日はオリエンテーリング大会が行われていたようで、ゼッケンをつけて何かを探して走っている方が沢山いた。

 

「八幡山古墳」と地図に記された場所に到着。

 

斜面を登ってみる。

 

一番上には金網に囲まれた球形のタンクがあった。

 

来た方向を振り返って。

 

古墳跡を示す案内は現地にはなかった。

 

「静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド」さんのサイトによれば、八幡山1号墳(八幡山山頂古墳)は、古墳時代中期から後期前頃(5~6世紀前半)に築かれた直径約30m・高さ約2mの円墳または帆立貝式の前方後円墳。

八幡山には戦前まで、18基の古墳が残っていたといわれているそうだ。

http://blog.livedoor.jp/shizuokak/archives/1799182.html

 

中世に山城になったということは地形がかなり改変されたはずで、それ以前はもっと多くの古群で覆われた丘になっていたのでは。

 

墳丘前は今は広場になっていた。

 

南東側に大きく広がるのは日本平・有度山。

山の右手の向こう側に、新春ブラタモリで取り上げられた久能山東照宮がある。

 

東側。中央奥は愛鷹山。その左肩の富士山には雲がかかってしまった。

 

北側には目の前に谷津山が。

 

2本の鉄塔が谷津山古墳の目印になっている。後ろには竜爪山(1040m)

 

ズームするとここからも雪を被った南アルプスが見えた。

 

下山は、渡神社、三峰神社のある参道を通った。八幡大神の幟が賑やかだった。

 

下から再び山頂方向を。

 

静岡駅までの帰路は徒歩で。駅の近くに三連のパーキングタワーがあった。