墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国際文化会館・旧岩崎邸庭園 東京都港区六本木

前回のつづき。

六本木の鳥居坂の坂上には国際文化会館がある。

 

入口の脇に説明板があった。

 

国際文化会館が建つ前は岩崎家鳥居坂本邸(昭和4年築)があったが空襲で焼失した。小川治兵衛が作庭した庭園は国際文化会館を建てる際に保全され調和がとられている。

港区指定文化財 名勝 旧岩崎邸庭園
現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の4代目当主岩崎小彌太(1879~1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園です。この庭園は、京都の造園家「植治(うえじ)」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本庭園作庭の先駆者として著名です。
本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その内側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入口部の岩組なども優れています。また、昭和5年の岩崎邸実測平面図と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
岩崎邸は昭和20年(1945)5月の空襲で焼失し、その後昭和30年には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築ですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められます。
本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるとともに、国際文化会館と調和した景観を作り出している点からも高く評価されます。
平成17年10月25日 港区教育委員会

 

昭和30年に竣工したモダンな建物は、前川國男・吉村順三・坂倉準三の3氏による共同設計。

 

1階部分の壁が大谷石。2,3階部分が少し迫り出している。

 

建物に入ってすぐのロビー。今の建物に比べて天井高があまりないが、それが落ち着いた雰囲気になっている。

 

ロビーにあった建築模型。左側が鳥居坂になる。

 

docomomo選定建築物と国登録有形文化財のプレート。

 

階下へ降りると庭への出入口があった。

 

築山の方へ進んでいくと六本木ヒルズも顔を出した。

 

築山の散策路は深山の趣き。

 

樹木越しの国際文化会館。

 

鳥居坂側の様子。塀の内側は、その屋根の高さまでが地面だった。

 

石造りの五重塔や貴人像が配される。

 

築山の一番高いところから見た国際文化会館。

 

建物全体を収められるポイントを探したが見つからなかった。

 

築山を降りて振り返ったところ。

 

こちらは別の時期の夜の庭園。

 

このときは紅葉もあった。

 

国際文化会館は公益財団法人であり、「日本と世界の人々の文化交流を通じた相互理解の促進と平和構築」を目指して公開講座などが開催されている。

http://www.i-house.or.jp/programs/eventcalendar/

このときは「建築を通して世界をみる~環境と建築」というテーマで建築家の妹島和世氏、藤村龍至氏、明治大学教授の小林正美氏によるトークセッションを拝聴した。

近代著名建築の中で現代著名建築家の話を直接伺うという貴重な機会となった。

鳥居坂 十番稲荷神社 東京都港区六本木・麻布十番

前回のつづき。

芋洗坂を下りきって都道319号に出て、道なりに左にカーブしていくと、鳥居坂の坂下に出た。

 

歩道に階段が付くほどの傾斜があった。

 

回り込んでいくと鳥居坂の標柱があった。

とりいざか
江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。

 

100mほどの一直線の坂道。

 

坂下の先、都道319号を超えるとさらに道は下り再び暗闇坂を上る。ちなみに奥の暗闇坂沿いのマンションは昨年11月末に竣工しているはず。

 

道路の対岸から見た鳥居坂。

 

坂上から見た鳥居坂。このすぐ左手にも標柱がある。

 

そこから振り返って北側。ゆるく傾斜してさらに上っていく。左側は国際文化会館。 

 

右手には重厚な煉瓦壁があるが、今は三井不動産の会員制サロン(三井グランディオーソクラブ)となっている。

 

鳥居坂を一旦下って麻布十番の駅方向へ向かうと、途中に十番稲荷神社があった。

 

道の対岸から。地下鉄の出入口のすぐ隣。

 

参拝して石段の上から。

 

こちらでは、石段の下の左側に七福神の石像がある。

 

そして右側には、かえるの石像が。

 

かえるの由来の説明板があった。

かえるの由来
昔ある年、古川辺から燃え出した火事に此辺りすべて烏有に帰してしまった時、「がま池」のほとり山崎主税助の屋敷のみ類焼を免れたのは、池中にいた大蛙が口から水をふいて、さしもの猛火を吹き消したとの故事により、山崎家から万人に「上の字」様のお守りが授けられました。
その後末広様(当社の前の御社名)を経てわけられていました。
その故事に因んだ「かえる」お守りは火防・やけどのお守・無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれております。

 

ブラタモリでも紹介された「がま池」はここから南西600mほどの台地の上にある。