墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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豊島区立 目白庭園 東京都豊島区目白

前回のつづき。

”近衛町”から北に進んで目白通りを渡って右折すると、通り沿いの家の間に細道があった。

 

上記を右折して先へ進んで振り返ったところ。

 

細道の「出口」から振り返って。2度直角に折れる楽しい小道だった。

 

そこから北へ向かう。歩道の舗装がきちんとある閑静な住宅街。

 

進んでいくと説明板があった。

 

赤い鳥社・鈴木三重吉旧居跡との解説板。

赤い鳥社・鈴木三重吉旧宅跡
鈴木三重吉は明治15年(1882)9月広島市に生まれた。夏目漱石門下の小説家で、代表作に「桑の実」がある。大正5年(1916)ごろからヨーロッパ童話の翻訳に努め、大正7年7月童話・童話雑誌「赤い鳥」を創刊し、途中休刊をはさみ、昭和11年(1936)6月に没するまで主宰した。「赤い鳥」は、同年10月に鈴木三重吉追悼号を出して廃刊になった。
鈴木三重吉の自宅は、一時期を除いて雑誌の発行元である赤い鳥社と兼ねていた。「赤い鳥」創刊の頃には、当地よりやや東側の山手線沿い(現目白3丁目17番)に住んでいたが、大正11年5月から13年10月にかけて当地の高田町字代地3572番地(現目白3丁目18番6号)に居住した。その後、長崎村字荒井(現目白4丁目8番ついで5番)に移った。
「赤い鳥」には、鈴木三重吉・芥川龍之介・菊池寛・小川未明・坪田譲治・新見南吉らが童話を書き、北原白秋・西条八十・三木露風らが童謡をのせ、清水良雄・深沢省三らが童画を描いた。また児童からの投稿を募り、三重吉が綴り方を、白秋が自由詩を、山本鼎が自由画をそれぞれ指導した。第一次世界大戦後のデモクラシー思想や、児童中心の教育が盛んになるなかで、「赤い鳥」は芸術性の高い児童文化を形成する役割を果たした。
平成11年7月 東京都豊島区教育委員会

 

さらに進むと白壁に囲まれた御屋敷のような一画が。

 

入場無料の豊島区立目白庭園だった。最寄りは目白駅で徒歩7分。

http://www.seibu-la.co.jp/mejiro-garden/access/

 

中には想像以上に大きな池があった。平成2年に現代日本を代表する造園家・伊藤邦衛によって造られている。

 

結婚式の写真撮影が行われていた。

 

池にせり出した六角浮き見堂から。池の向こうの建物は一般も使用できる集会場・「赤鳥庵」

鈴木三重吉の「赤い鳥」にちなんだ名前で、京都の北山杉を用いた木造瓦葺き平屋建ての数寄屋建築であるとのこと。

 

赤鳥庵の軒下テラスから。
高さ4メートルの滝、緑の芝生もあるようだが、撮影隊を邪魔しないようこの日は周回せずに引き上げた。

 

水辺に休むカルガモ。

 

長屋門へ戻る小道はモミジの青葉がきれいだった。11月下旬には「秋の庭園ライトアップ」が開催されるとのこと。

公式サイトの「庭園だより」には手入れされた草木の写真が多く載る。

http://www.seibu-la.co.jp/mejiro-garden/blog/ 

 

庭園を出てさらに北へ。

 

庭園北縁の白壁。

 

西武池袋線の踏切を越える。

 

そのまま進むと左てに別の公園があった。

 

・豊島区立 上り屋敷公園

江戸時代の狩場の休憩所であった「お上(あが)り屋敷」が公園の名に引き継がれている。広場の真ん中に大きなムクノキがあった。

自由学園明日館はここからすぐ東、100m程だったが次回で。

日立目白クラブ(外観)日本バプティスト目白ヶ丘教会(外観) 東京都新宿区下落合

 9月の初め、高田馬場から池袋の自由学園明日館まで、閑静な住宅街を歩いてみた。

高田馬場駅を北口で降りて富士大学の学生で賑う商店街を北西に進み、右折して神田川を越え新目白通りを渡ると目の前に斜面が迫ってくる。

 

道端にザクロがたわわに実っていた。

 

山手線の土手を貫くトンネルが見えたところで左折。

 

いい坂があった。

 

左右に曲りながら上る。

 

傾斜も結構ある。

 

坂上から。坂名があるのかはわからなかった。

 

坂の途中、家の間からモダンな建物が顔をのぞかせた。

 

台地の端に建つ日立目白クラブ。


昭和28年から日立グループの福利厚生施設だが、昭和3年に学習院の寄宿舎として宮内省が建設した鉄筋コンクリート造2階、地下1階の建物で、昭和寮と呼ばれていたそう。

この場所には大正末期までは近衛邸があった。

同時に建てられた別館も隣にあり教会として使われている。

 

本館の正面は、縦長のアーチ窓が階段状に左端の煙突塔に連なっていく。

 

スパニッシュ調の個性的な街並みを形成する7棟の住宅建築群は、東京都により歴史的建造物に選定されている。

http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kenchiku/keikan/rekiken/re_list06.htm
http://www.metro.tokyo.jp/INET/EVENT/2013/09/21n94101.htm

 

閑静な住宅街の突き当たり、台地の南端にあるが、大正末期まではあたり一帯が近衛邸の敷地だった。

 

日立目白クラブから北への道沿いには、日本バプティスト目白ヶ丘教会。

 

水煙のような塔のデザインが面白い。

 

昭和25年の築、設計はフランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新であったことをあとから知った。

 

これまでに2ヶ所訪ねている。


そこから北側に続く道には、まん中に立ち木があった。 

 

ここはグーグルマップに「旧近衛邸大欅」と載る。

近衛邸の車寄せだった場所で、近衛文麿の父である篤麿が明治33年に一帯を購入後、40歳で急逝し借財返済のために分譲されて欅は伐採されることになったが、近隣住民の保存運動で残ったとのこと。

 

大欅の先に見る日立目白クラブ。

 

マップ上、そこから100mほど西に近衛篤麿旧居跡という記しが出たので寄ってみた。

 

普通の住宅の間に玉垣のような囲いが。

 

その奥に大きな碑があった。

 

裏に大正13年の建立とあった。

 

石に刻まれた解説もあった。

近衛篤麿公記念碑
公の諱は篤麿、霞山と号した。大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第28代当主。文久3年(1863)6月26日京都に生まる。
明治17年(1884)、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治23年(1890)帰国し、貴族院議員。明治28年(1895)学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に憤慨し、中国の保全と日中の輯協(協力)を提唱。明治31年(1898)東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治37年(1904)1月1日逝去。行年僅か42歳。
当地は、公が明治35(1902)に晩年の居を定めた所であり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが、別称近衛町ともいう。この記念碑は公没後20余年の大正3年(1924)7月に建立された。
平成8年(1996)1月 財団法人霞山会 会長近衛通隆

 

 

碑の後ろに、むくりのある屋根の木造家屋と煉瓦塀があった。

 

日立クラブからの道に戻って北へ。

なつかしい雰囲気の駐在所があった。 

 

東京古典楽器センターという気になる場所も。

 つづく。