今回からは11月下旬に訪ねた南河内の墳丘巡り。何度か来たエリアではありますが、未探訪古墳の一部を見て回りました。
最初に向かったのは雄略天皇陵古墳。
現地南側の羽曳野市立陵南の森総合センターの駐車場に車を停めさせていただいて。

図書館や歴史資料館もあるようですが、この日は休館日でした。

左下の緑が雄略天皇陵古墳の一部です。
センターの敷地を出て、東側の拝所へ回りました。新しく造られつつある道路に面しています。

こちらがその拝所。

「雄略天皇 丹比高鷲原陵」と書かれた高札。

柵の向こうの白砂は清らかに整えられていました。
どの拝所に、いつ行っても、それが行き届いていることに驚きます。

鳥居のすぐ先に、それほど高くはない墳丘。
上記の右手、北側から見る拝所。

その先の角。もし前方後円墳なら右隅にあたる場所です。

さらに北へ進んで振り返ると、大きな石標もありました。

そこから墳丘の北側の住宅地に回り込んで墳丘側を。

柵の向こうの林の中は、ほぼ平地…?

さらに先へ進むと、”後円部”部分と周濠が。

しかし、前方部(左)と後円部(右)との間は濠で分断されていました。

さらに進むと濠が広くなっています。

「高鷲原」との石標が立っています。

”後円部”部分を左手に見ながら、濠の縁の道路を歩きます。

遠目からの分断部分。

その先に説明板がありました。”前方部”部分は島泉平塚古墳、”後円部”部分は島泉丸山古墳。前方後円形に整備され、雄略天皇陵として治定されているという書き方になっています。

古市古墳群
雄略天皇陵古墳
雄略天皇は埼玉県稲荷山古墳で出土した鉄剣の銘に「獲加多支鹵大王」と記され、古事記では「御陵は河内の多治比の高鸇(たかわし)にあり」、日本書紀には「丹比高鷲原陵に葬りまつる」と伝えられています。
現在は直径75mの島泉丸山古墳と一辺の長さ50mの島泉平塚古墳が前方後円形に整備され、雄略天皇丹比高鷲原陵として治定されています。
日本書紀には「雄略天皇に仕えていた隼人が、悲しみのあまり物も食べずに泣き続け、7日目についに死んでしまったので、その墓を御陵の北に造って葬った」という、物語が記されています。
羽曳野市
航空写真も載っています。

グーグルアースで。2つの部分の長軸がずれており、これは見るからに前方後円墳ではないですね。
グーグルの「AIによる概要」によると、1864年(元治元年)まで丸山古墳のみが雄略天皇陵とされていたものが、同年に平塚古墳が「雄略天皇前陵」として陵域に取り込まれ、後年の修陵で両古墳が一体化して前方後円形に整備された、とのことでした。
Wikipediaには、明治18年に両古墳の間に盛り土がされたとあります。
分断部分を後円部の後ろにすると前方後円墳に見えなくもないですが、それでも不自然ですね。明治に形を整えた工事の方々は、苦労されたのではないでしょうか。

後円部の堤が切れている部分。こちら側は、ため池として拡げられたようです。

後円部の西側の住宅地。このあたり、「陵南の森」側へ抜けられる道が全くなく、元来た道を戻りました。

今更ですが、ため池の北側に陪塚が残っていることに気付きました。四方を住宅に囲まれていますが、近寄れるようです。
この「陪塚い号」には、さきほどの説明板にあった「隼人」の名前がついています。これがあったことも、島泉丸山古墳が雄略天皇陵に治定されたことに影響したのでしょうか。
Wikipediaには、「近年では真の雄略天皇陵を岡ミサンザイ古墳(藤井寺市、仲哀天皇陵)に比定する説等も挙げられている」とありました。
この後、北西に900mほどの津堂城山古墳を訪ね、210mの墳長や巨大な石棺(レプリカ)を実感しましたが、こちらは4世紀後半の築で、5世紀後半の亡くなった雄略天皇・ワカタケル大王とは100年の開きがあるのですね。
2025年11月下旬訪問