前回の西山古墳(跡?)からは、南の集落へ。
途中に立っていた「王陵の里史跡案内板」には沢山の古墳、前方後円墳や前方後方墳も示されていて壮観でした。垣籠町は「かいごめ」と読むそうです。

王陵の里 史跡案内
・垣籠町名の由来
上古においては、坂田酒人真人の本拠地で、浄地の一区を垣で以ってめぐらしめたるにちなみて生じたるもの。又一説には、息長宿禰王の父、迦邇米雷王(かにごめいかづちおう)坂田の地に封じられ、その尊名を以って以前は迦邇米村(かにごめむら)と称したるもので、町名に附したるとも伝えられる。
・古墳とは
3世紀の後半から7世紀に築造された日本の支配者、大王やその親族にあたると思われる地方の支配者、豪族の墓である。
垣籠の古墳群
県指定史跡の垣籠古墳をはじめ、横山には龍ヶ鼻(たつがはな)古墳群、堂の前古墳群、総山古墳群、丸子山古墳群等の22基の古墳がある。隣接して県指定史跡で有名な湖北最大の茶臼山古墳がある。垣籠古墳は、第15代応神天皇(3世紀中頃)の皇子、稚渟毛両岐王と伝えられる。
・その他史跡等
山頂堂の前古墳を左右に「天神さん飛来す」と淡海温故録に記される飛天神(天神岩)、古代文字の刻まれし舟岩(牛岩)、山東への切通し古道の犬飼坂、この坂に南接して弘法大師もお泊りになったと伝えられ、姉川合戦で焼失した広大な寺域の法性寺遺跡弘法池もある。姉川合戦時、古墳は砦化し、特に龍ヶ鼻古墳は織田信長の本陣として有名である。この姉川合戦に浅井家の重臣遠藤喜右エ門直経が織田陣深く切り込んで討死した遠藤塚も近くにある。
平成23年垣籠町こまざらいの会
集落の桜は満開でした。

マップのピンの位置を探すと、広場の片隅に「上寺地(かみてらち)古墳」の表示板が。

資材が置いてあるあたりに円墳があったのでしょう。

2025年4月中旬訪問