紀伊風土記の丘で天王塚古墳に感動したあとは紀ノ川を渡って右岸側山裾の車駕之古址(しゃかのこし)古墳へ。車で25分ほど。
整備された古墳公園になっていますが駐車場は無く、周りの道も狭いです。

墳丘は、ぺったんこ。墳名の「車駕」は貴人の乗る車のことだそう。

手前側が後円部、奥が前方部になりますが。

現地説明板。全長86mで、元の高さは8mだったようです。

車駕之古址古墳
車駕之古址古墳は、段丘上に築かれた古墳時代中期(5世紀)の前方後円墳です。埋葬された人物は、当時の紀の川北岸を支配していた豪族の首長であると考えられます。
古墳の大きさは全長が86m・高さ8mであり、前方部は幅41m・長さ35m、後円部は直径51mで、墳丘は二段に築造されて南側には「造り出し」と呼ばれる方形の祭壇があります。また、古墳の斜面は拳大から人頭大の川原石の葺石で一面に覆われています。さらに、古墳の周囲には濠が掘られていて、濠の外周の堤を含めた古墳の総延長は120mあり、県下の最大級の古墳です。このため、和歌山県指定文化財(史跡)として平成6年4月20日に指定されました。
古墳の発掘調査からは、多数の埴輪の破片およびガラス小玉とともに金製勾玉が一個出土しました。金製勾玉は日本では唯一の遺品ですが、朝鮮半島南部の古墳からはいくつか出土例があり、古代の和歌山と朝鮮半島との交流があったことを物語っています。
和歌山市教育委員会
説明板には復元イメージ(将来の?)が。

(日本では唯一)出土した金の勾玉の写真も。

金製勾玉に関する詳細な解説も。朝鮮半島南東部では複数の出土例があるとのこと。

金製勾玉出土地
金製勾玉は平成2年(1990)に行われた車駕之古址古墳第2次発掘調査の際に後円部の南側斜面で発見されました。勾玉が発見された同じ地層からは砂岩や結晶片岩の小片、埴輪の小破片、ガラス小玉などが出土しています。そのため、後世の開墾時に後円部の頂上に築かれた埋葬施設や葺石などが壊され、墳丘の土と一緒に金製勾玉を含む埋葬品が後円部の 斜面周辺に散らばった可能性が考えられます。金製勾玉
金製勾玉は長さが1.8cm、重さが1.57gあります。勾玉の頭部は刻み目を入れた細い金の紐を貼り付けて飾っています。当時は首飾りの中心の玉として使用されたと考えられます。勾玉の成分を調べた結果、金・銀・銅の合金製で、現在の金細工に使用されるものとよく似た割合であることが判明しました。この合金組成は金に銀を意図的に加えて調整された可能性が高く、当時すでに高度な合金技術が存在していたことがわかります。
金製勾玉は現在のところ、日本列島では車駕之古址古墳以外では出土していません。類似資料は、朝鮮半島の新羅の皇南大塚、金冠塚、瑞鳳塚、伽耶地域の玉田古墳群M4号墳などから出土しています。そのため、車駕之古址古墳の金製勾玉は古墳時代中期における朝鮮半島南東部の諸国と紀伊の首長との密接な関係を示す重要な遺物です。
金製勾玉は平成7年(1995)に埴輪やガラス小玉などとともに和歌山県の有形文化財に指定されています。
こちらのサイトでも画像が見られます。
後円部から前方部を。子供たちが楽しそうに遊んでいました。

後円部先端方向(東)には、住宅の背後に釜山古墳。このあとに訪ねました。

前方部へ移って後円部方向を。

前方部右裾側の稜線。

南方向の眺め。この場所は標高5mの砂州の上になるそうです。

前方部右裾に降りて振り返った墳丘。

下記のサイトで、すぐ北側の木ノ本文化会館か木ノ本児童館に「声をかければ車を停めさせてもらえる」と知りました。児童館駐車場の一角には、古墳の北を通る溝の復元展示もあるとのこと。
車駕之古址古墳 〜 日本唯一の金製勾玉発見 | ニュース和歌山
2025年3月上旬訪問