2025年3月上旬、和歌山県の紀伊風土記の丘の「天王塚古墳公開」に抽選で当たったので行ってまいりました。
当った時間が15時20分からの回だったので、朝からは「わかやま古墳ガイド」を参考に、”紀北の古墳”の章にある古墳を巡りました。

まずはその”章”の東端の隅田八幡神社へ。
奈良との県境に近く、紀伊風土記の丘と組み合わせるのはちょっと遠すぎたかも…
10時前に隅田八幡神社に到着。小雨模様でした。

隅田(すだ)と読みます。

拝殿を正面から。

その左隣に国宝の人物画像鏡のモニュメントと説明板がありました。

詳しい説明板。

国宝 人物画象鏡
大正5年5月24日国指定 昭和26年6月9日国宝指定
隅田八幡神社に伝わる青銅鏡。直径19.8㎝、重さ1,434g。背面内区には人物や騎馬像をあらわした画像文が描かれ、外区にはこの鏡の特徴である四十八文字からなる銘文が鋳出されている。この銘文の解釈については諸説があるが、おおむね次のように読むことができる。
(中略)
銘文冒頭の癸未(みずのとひつじ)年は十干十二支を組み合わせて年代をあらわしたもので、六十年に一回巡る紀年法である。銘文中漢字の音をかりて表記した固有名詞をどのように比定するかで年代が異なり、西暦383年、443年、503年のいずれかにあたるとされるのが一般的である。銘文解釈の一例をあげると「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙和の宮にいましし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人今州利二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」と解釈することができる。ただし、文字の解読や銘文中の人物をだれに比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。
考古学的には、この鏡は舶載の画像鏡を手本として製作されたものと考えられている。この原型とされる中国鏡と比べると、内区の画像は逆まわりに配され、乳による区画も不統一で、人物像も少なくなっている。図像の構図が左右逆転し、逆まわりに配されるのは、手本となる鏡をそのまま鋳型にひき写す仿製鏡によくみられる特色である。原型とされる中国鏡は大阪府八尾市の郡川古墳等で出土しており、それらの古墳が西暦400年代後半から500年前後とみられることから癸未年は443年または503年と推定されている。
この鏡がいつ頃隅田八幡神社の所蔵するところとなったかは詳かでない。江戸時代後期に編纂された「紀伊国風土記」および「紀伊国名所図会」にはこの鏡に関する記述があり、相当以前から神宝として隅田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる。いずれにしても、日本最古の金石文の一つとして貴重な資料である。
平成6年3月 橋本市教育委員会 隅田八幡神社
正確な出土年代や出土地は定かでない、つまり隣接する古墳との関係も定かではありません。

拝殿を背にして、客殿中央の通路を抜けます。左下が隋神門。

隋神門手前に手水舎。

そこから南側の眺め。

隋神門を降りて振り返って。

門の前には一直線の参道が。

そこから隋神門の左側を振り返って。民家の左奥の木立のあたりに隅田八幡神社古墳のピンが立っていましたが、無理せずに「いつかの機会」としました。

あとで調べると、先達がルートを丁寧に示していただいているではないですか。
和歌山県橋本市隅田町 隅田八幡宮古墳・隅田八幡神社・隅田八幡神社人物画像鏡 | 古墳探訪記
予習不足…
2025年3月上旬訪問