墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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夕田茶臼山古墳 岐阜県加茂郡富加町夕田

川合地区から鵜沼へ戻る途中、ちょっと遠回りして富加(とみか)町の夕田茶臼山古墳へ寄りました。

 

グーグルナビに導かれた谷戸の奥。この背面が墳丘への上り口。広めの駐車場がありますが、道幅は狭いので要注意。

 

駐車場脇にあった説明板。

史跡:夕田茶臼山古墳
丘陵の尾根の上に築かれた39.5mの前方後円墳です。平成21~24年度にかけて築造年代や古墳の築造方法について調べるための発掘調査が実施されました。 
調査によって、石室などの埋葬施設はなく、木棺をそのまま埋めたものであることがわかりました。 
また、古墳を作る前に元の山の頂上部を平坦に削って大規模な造成をしていることもわかりました。 
後円部墳頂からは赤く塗られた有孔直口短頸壷が出土しています。古墳の築造造年代は出土土器から3世紀代と推定され、埋葬方法や、古墳の盛り土の方法などが弥生時代終末期の墳丘墓の様子に近いものでした。 
前方後円形の墳墓としては岐阜県で最も古い事例であり、非常に保存状況の良い貴重な古墳です。 夕田地区には他に2基の前方後円墳(蓮野古墳、杉洞1号墳)があり、町内でも早くから開かれた地域であると考えられます。 
富加町教育委員会

 

詳細バージョンも。

夕田茶臼山(ゆうだちゃうすやま)古墳

夕田茶臼山古墳は、富加町夕田地区の谷の最奥部にあります。北向きに舌状に迫り出した丘陵の上に築かれています。
平成21~24年度に古墳の規模や年代を知るために軽13ヶ所のトレンチと呼ばれる調査区を設定し発掘調査を行いました。

■不整形な前方後円形
調査の結果、夕田茶臼山古墳は全長39.5mの前方後円墳であることが分かりました。後円部の直径が24.5m、前方部の長さが15.0mですので後円部が比較的大きいのが特徴です。また前方部と後円部の標高差は2.4mもあります。 
古墳の主軸は北西ー南東の方向を向いていますが、埋葬主体部(遺体を納めた木棺の向き)はほぼ南北軸であることがわかります。 
前方部の前面にだけ溝が掘られていました。これは丘陵の地形と古墳とを隔てるために設けられた区画溝と考えられます。 
葺石などの外護施設は無く、埴輪も出土していません。古墳の形を復元すると前方後円形ですが、左右対称ではない事が分かりました。後円部は不整形な円形です。これは丘陵上に作られているため地形の制約を受けている事が原因のひとつと思われます。 
また、元の丘陵から少し西側へ迫り出して造られている点も特徴と考えられます。西へ見せる、西から見られるという事を意識して築造されている事がわかります。

■夕田茶臼山古墳の諸属性 
墳形:前方後円墳
全長39.5m、後円部径24.5m、前方部長15.0m、前方部くびれ部幅10.5m、前方部前面幅15.1m
後円部最高標高126.95m、主軸:N-39〜40°-W 、前方部最高標高124.55m、前方部と後円部の比高2.4m 、前方部平坦面長さ8.2m、後円部高さ西側端部から5.5m 、後円部高さ東側端部から3.5m、前方部高さ西側端部から3.2m

■大規模な造成! 古墳を造る前に山を削って平らにしています。
夕田茶臼山古墳は、古墳を造る前に山の頂上部を削って平らに均している事が判明しました。後円部の墳頂は、発掘調売によって写真のように地山の岩盤(凝灰岩)が平らに削られてから盛土されている事が判りました。古墳の築造前に非常に大規模な土木工事を行っているのです。 
前方部は元の山を削って大まかな形をつくり、その後、盛土して整形していることが判りました。

■夕田茶臼山古墳 築造過程模式図
①山の頂上を平らに均す。山を削りながら古墳の輪郭を作り出す。 
②埋葬部となる後円部に十分な面積を確保するため西側に盛り足しを行う。 
③後円部の基盤造成前に粘土を敷いて整地する。 ④後円部の基盤造成面の外縁に土手のように盛土をして墓壙をつくる。前方部もこの段階で盛土をしておおよその形をつくる。 
⑤棺を埋葬し、全体に礫混じりの土を盛って形を整える。 

■遺体を埋葬した部分は石槨や粘土槨を作らず木棺を直接に埋葬しています。
遺体を納めた箱を護るための石槨や粘土槨などを作らず、木の棺をそのまま埋めて埋葬したものと判明しました。木の棺自体は腐ってしまいますので、棺の部分に落ち込んだ土の質や色の違い、そして棺が陥没した にできた断層状の落ち込みなどから棺の位置と規模を推定しました。棺は北北東-南南西の軸で、長さ2.6m、幅は南端が1.0m、北端が1.2~1.3mの長方形であることが分かりました。盗撮の跡が確認されましたが、ほとんど影響を受けず当時のまま埋没していると判明したため主体部の掘削は行わずそのまま埋め戻してあります。 

■出土した土器と炭化物の分析から古墳の築造年代は3世紀前半と特定 
後円部の墳頂にはベンガラで赤く彩色した壺が出土しました。頸の部分が短く、穴があけられていました。このような壺は、中濃地域においては弥生時代の終わり頃の方形周溝墓と呼ばれるお墓から出土する例が多く、供献用(お供え物を入れた容器)の壺と考えられます。
その他にも高坏や壺、甕などの破片が多く出土していますが、これらも弥生時代と古墳時代のはざまの時代のものがほとんどでした。
これらの土器を考古学的に分析すると、およそ3世紀前半いう年代が考えられます。
また、墳頂部の造成面に炭が散布していました。土を盛る前に火を使っている痕跡です。この炭を 年代測定(AMS年代測定法)したところ、土器の年代と同じく3世紀前半の可能性が高いという結果 が出ました。

■弥生時代から古墳時代へ移り変わる過渡期の「前方後円墳」という評価 
夕田茶臼山古墳の埋葬部分は、木棺をそのまま埋める埋葬方法、そして土手状に土を盛りながら棺を納めるための穴を作る方法(構築墓壙)や供献する土器など、弥生時代のお墓に似た要素が多くあります。墳丘の形は古墳時代前期に代表的な「前方後円形」でありながら、墳丘の作り方などは弥生時代の墳丘墓(土を盛って作ったお墓)とよく似ています。出土遺物から導き出される古墳を造った年代は3世紀前半であり、これは弥生時代から古墳時代へ移り変わるまさに過渡期の年代となります。弥生時代のお墓作りの伝統を残しながら、前方後円墳という新しい古墳の形を採用しているという点で、岐阜県の古墳時代の始まりや、古墳がどのように誕生していくのかを考える上で非常に重要な事例となるものと思われます。 
夕田茶臼山古墳が造られた以後、今のところ周辺地域では可児市にある前波長塚古墳(可児市)が造られる4世紀まで前方後円墳は見つかっていません。また、3世紀前半という年代はホケノ山古墳や纏向石塚古墳(奈良県桜井市)など 大和の初期前方後円墳が誕生するのとほぼ同時期ということになります。こうした古墳時代につながる新しいお墓の作り方や「形」に関する情報がどのように当地にもたらされたのか、どのような経緯で前方後円形を採用することになったのかは未だ大きな謎であり、今後の課題といえます。 
「魏志倭人伝」や「後漢書」東夷伝などの中国の史書には2世紀後半頃に倭国が大いに乱れ、その後、卑弥呼という女の王を共立して乱が治まったと記されています。そして卑弥呼は西暦の248年頃に亡くなったと考えられていますので、夕田茶臼山古墳に眠る人物は、卑弥呼と同じ時代を生きた人物である可能性が考えられます。地域社会が成熟し大きなまとまりを持ち始めた時代、その地域をまとめる権力者=王が誕生した時代です。夕田茶臼山古墳に眠る人物もこの地に誕生した初めての「王」として存在した人物像が考えられます。

 

ここで、まさかの雨が降ってきました。

 

登りはほんの数分ですが、なかなかのつづら折り(を振り返って)

 

登りきると、素敵な墳丘! 地形にフィットするように築かれています。

手前が前方部、奥が後円部。

 

前方部上から後円部を。


後円部から西方向。

 

ズームで、少しだけ見えた平地部。

 

後円部の先は切れ落ちています。

 

後円部から見る前方部。

 

そこから少し右に目を移して。何か土の面が見えていて、径があったので行ってみました。

 

平地がありましたが何でしょう。

 

そのあたりから、木々と谷越しの夕田茶臼山古墳。

 

岐阜県や富加町のサイトにも画像つきの説明あり。

夕田茶臼山古墳[ゆうだちゃうすやまこふん] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)

国史跡「夕田墳墓群」 - 富加町

2024年12月上旬訪問