墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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宇佐八幡遥拝所~近江神宮~大津宮遺跡 滋賀県大津市錦織・神宮町

前回の皇子山古墳からは北へ、柳川を渡って近江神宮へ向かいました。

 

川の手前にあった宇佐八幡遥拝所。

 

宇佐八幡神社はここから北東に比高差90mを登った宇佐山中腹(標高250mの近く)

地理院タイル(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

斜面には宇佐山古墳群が展開しているようですが、自分は保育園南側の小径から近江神宮の駐車場へ向かい、説明板のみを撮りました(2台の車の間)

宇佐山古墳群の発掘調査
柳川支流補助通常砂防工事にともなって、平成22年に発掘調査を実施しました。調査の結果、弥生時代中期末(紀元前1世紀頃)の竪穴式住居跡や、弥生時代末~古墳時代初頭(3世紀頃)の方形周溝墓群、古墳時代中期(5世紀頃)の古墳、奈良時代(8世紀頃)の祭祀場、平安時代中期(9~10世紀頃)の火葬墓(蔵骨器)など、さまざまな時代の遺構や遺物がみつかりました。
5世紀頃に築造された古墳(13号墳)では、南北約20m、東西約15mの方墳の中央付近に、遺体を納めた箱式石棺が良好な状態で残されていました。石を組み合わせてつくった箱式石棺の中には、葬られた人の頭蓋骨が奇跡的に遺存していました。被葬者は40~60歳ぐらいで死亡した男性とみられます。頭蓋骨には魔除けのために赤色顔料がかけられ、石棺の外には鉄刀・鉄斧・砥石が副葬されていました。
平成24年7月 滋賀県教育委員会 滋賀県大津土木事務所

 

その後は近江神宮に参拝。規模の大きな神社です。

 

御祭神は天智天皇で、昭和15年に皇紀2600年記念事業の一環として創建されています。

近江神宮 | びわ湖大津トラベルガイド

近江神宮公式ホームページ|総合案内

 

楼門から望む拝殿。

ツアーの集合時間が迫っていたので、楼門から参拝。

 

森の中の参道を降りて、再び柳川を渡ると、「大津京シンボル緑地」という小広場(駐車場?)が。

 

そこから南へ県道を歩いて行くと、道路脇のそこここに近江大津宮の遺跡がありました。

 

急ぎ足だったので、敷地に入ったのは一か所のみ。

史跡 近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこうりいせき)
大津宮は、天智6年(667)に中大兄皇子(のちの天智天皇)が飛鳥より遷都した宮です。天智2年(663)の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことを受け、国内外情勢が大きく揺れ動く中での遷都でした。天智天皇は律令制度に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしましたが、遷都後わずか5年でこの世を去り、その後に起きた壬申の乱によって大津宮自体も廃墟となりました。わずか5年5か月の短命の宮でした。
この宮は柿本人麻呂が「ささなみの 志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまた逢はめやも(万葉集巻1・31)と詠んだようにまもなく荒廃し、その位置も忘れ去られ、長らく明確にすることができませんでしたが、昭和49年(1974)にここ錦織2丁目で行われた発掘調査により、宮に関連すると考えられる東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が13基発見されました。この遺構は東西に細長い建物跡と推定され、発見された建物の規模や構造などから大津宮の有力な候補地として注目されるようになりました。その後、昭和53年
(1978)に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されました。これは内裏南門と宮の中心を囲う回廊、およびこれにつながる柵の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになりました。
このことを受け、昭和54年(1979)に建物跡の見つかった部分が国の史跡に指定されました。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある場所も、順次史跡に追加指定されています。
滋賀県

 

2024年6月上旬訪問