墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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葉佐池古墳 愛媛県松山市北梅本町

今回の伊予墳行で最後に訪ねた墳丘が、国史跡の葉佐池(はざいけ)古墳でした。

松山市の東端で、伊予鉄横河原線の平井駅から歩いても行ける(30分ですが)場所に立地。

 

史跡公園として整備され、ガイダンス施設や駐車場も充実しています。

 

駐車場にあった立体地図。中央ブロックの左下①番が現在地ですが、北の丘上には数多くの古墳や窯跡(須恵器の登り窯)が記されています。

 

目の前の墳丘に吸い寄せられるように登ってしまい、ガイダンス施設はその後で見学しました。登り口にあった説明板。

未盗掘のものを含む複数の石室を有し、残っている墳丘は長円形。

史跡 葉佐池古墳
葉佐池古墳は1992年に偶然発見された、南北が約41m、東西が最大約23mの長円形の古墳です。発掘調査によって、墳丘に3基の横穴式石室(1号・2号・4号石室)と2基の小さな竪穴式石室(3号・5号石室)が存在すること、墳丘の造り方が分かりました。
特に、1号石室(6世紀後半~7世紀初め)と2号石室(6世紀中ごろ~7世紀初め)は未盗掘で保存状態も極めて良好です。この2つの横穴式石室は、最後の埋葬を終えた時の様子をとどめているだけでなく、初めて埋葬が行われたときから最後の埋葬までの間に行われた、数回のお供えや儀式が分かるとともに、埋葬された人が「モガリ」を経てから古墳に入れられたことも明らかになりました。
この古墳は未盗掘の横穴式石室を有し、古墳時代後期の葬送儀礼を知ることができる貴重なものです。このことから2011年2月7日、国に史跡に指定されました。

 

しっかりとした階段を上がります。

 

上がった先の右が墳丘。

 

そこを上がると目の前にロープが張られ、それ以上は行けません。

 

いったん降りて回り込みます。

最初は、説明板をよく読まずに上がったので、前方後円墳の前方部かと思ってしまいました。

墳丘の周りは掘り下げられているので、元の裾面の高さがわかるように残されているようでした。

 

すぐ隣は葉佐池です。

 

葉佐池側からの墳丘。掘り下げた部分はきれいに積まれた石垣で保護されています。

 

回り込んでいくと階段の手すりと建物が。


墳頂へ上がれるようになっています。


そこを登って振り向いて。

 

階段の途中の斜面からは馬の下あごが出土。

馬の埋葬
この位置に、馬の下あごが埋められていました。古墳を造るにあたって、山を段に削って下あごを置きお祭りや儀式をしたようです。その後、土を盛って墳丘が造られています。

 

墳頂には石室保護施設があります。

1号石室
全長4m、玄室長2.8m・幅1.4m・高さ1.8mの横穴式石室。石室が使用された時期は、前庭部から見つかった須恵器から、最初の埋葬が6世紀後半、その後2回の追葬が7世紀の初めと考えられます。

 

ドアを開けた空間。

 

電気がつくと…


目が合ってびっくり!

 

1号石室では追葬が2回行われたとのこと。

 

このあと見学したガイダンス施設に、追葬の様子が詳しく解説されていました。

 

墳頂から西側、松山市街方向の眺め。

 

ズームすると、海と島(由利島?)も。


南側には屏風のような山並み。

 

東の谷奥側。


見えていたのは石鎚山でしょうか。

 

グーグルフォトがパノラマにしてくれました。

 

一応動画でも。


www.youtube.com

 

ガイダンス施設では、さきほどの1号石室内が遠隔カメラ操作で見られるようになっていました。

 

1号石室の人骨にヒメクロバエのサナギが残っていたことから、モガリが行われたことがわかるとのこと。

モガリ

1号石室で見つかった人骨に、びっしりとハエのサナギのカラが付着していました。それらは、死後するに遺体にたかるニクバエと、死後3~4日後に現れるヒメクロバエのものでした。ハエは夏を中心に春から秋にかけて活動し、暗い場所では活動しない習性をもちます。このことから、古墳に埋葬された人は春から秋にかけて亡くなり、埋葬まで一定の光と風通しのある場所に置かれたと考えられます。そして、亡くなってから埋葬までの期間は、ヒメクロバエが現われ卵を産み、卵が成虫になるまでの期間から考えて、1週間以上10数日と考えられます。この期間が、亡くなった人の死を悲しむ儀式である、モガリが行われた期間と考えられます。

 

駐車場の立体地図にもありましたが、周囲は須恵器の登り窯が数多く残っています。次の機会で再訪したいです。

被葬者の生業
葉佐池古墳周辺には古墳時代~奈良時代にかけての須恵器を焼く登り窯が分布しています。特に古墳と同じ時期と考えられる窯は、北東の枝朶下(しだのした)池や潮見山の南側で見つかっています。しかし、登り窯のほとんどが未調査でくわしいことはわかりません。
葉佐池古墳に埋葬された人たちは、須恵器作りに関係する人、もしくは須恵器作りのリーダーとその一族であった可能性が考えられます。

 

長円形の墳丘ですが、一度築いた墳丘(石室)を壊し、その上に築いた結果であったようです。

ビデオを見ながら積み木で学べるコーナーがありました。

 

あらためて、その実測図を。