墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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古津八幡山古墳(国指定史跡 古津八幡山遺跡) 新潟県新潟市秋葉区古津

前回のつづき、古津八幡山(ふるつはちまんやま)古墳。

丘の西裾に駐車場と資料館があります。

 

古墳のすぐ西のトイレ脇にあった説明板。

国指定史跡 古津八幡山遺跡
古津八幡山遺跡は、信濃川と阿賀野川に挟まれた丘陵上に立地する弥生時代後期(1世紀~3世紀)の大規模な高地性環濠集落です。南北500m、東西300mの範囲に、環濠・竪穴住居・土壙・方形周溝墓・土器棺墓・前方後方形周溝墓が見つかりました。高地性環濠集落は、弥生時代後期に日本海側にも出現します。古津八幡山遺跡は現在のところ最北に位置する北陸系の高地性環濠集落であり、西日本を中心とする勢力の影響がこの地に及んでいたことを示しています。また、集落が途絶えた後の古墳時代前期には古津八幡山古墳が築かれています。
弥生時代後期から古墳時代前期にかけての社会情勢の変化を示す貴重な遺跡として、2005年に国史跡に指定されました。

 

古墳は直径約60mの円墳で、古墳時代前期(西暦400年前後)の築と考えられています。

高地性環濠集落
高地性環濠集落は、平地から30m以上高い丘陵の上に立地し、周囲を濠で取り囲んだ弥生時代の集落のことです。
全国では西日本を中心に300ヶ所以上確認されており、水稲耕作に不向きなことから高地性集落の機能についてはいろいろな意見があります。「魏志倭人伝」などの中国の史書でいう「倭国大乱」と関連づけて「戦いに備えた防禦的集落」とする意見が多数です。
越後平野では新津丘陵から長岡市にかけて平野を見下ろす丘陵上に多く発見されています。

 

古津八幡山古墳 

墳丘の直径が約60mの円墳です。2段築成で周濠が廻っています。現在残っている古墳では新潟県内最大規模です。

 

越後平野の高地性集落と前期古墳の分布地図の部分を。

 

北西側の斜面を、墳丘目指して登ります。

 

門のように2本の木。

 

右手に階段ルートがありました。


墳丘に上がる階段は北東側にまわりこんだところに。

 

そのそばに、古墳についての説明板。

古津八幡山古墳(国指定史跡 古津八幡山遺跡)
古津八幡山遺跡は弥生時代後期(1~3世紀)の集落と古津八幡山古墳(4世紀終わり~5世紀初め)を中心とする遺跡です。
古津八幡山古墳は遺跡のある丘陵の北端にあり、頂上の標高は約50mです。遺跡の西には越後平野が広がり、古墳頂上からは弥彦山・角田山や信濃川・阿賀野川の河口付近まで見渡すことが出来ます。
越後平野は新潟県内で古い時期の古墳(前期古墳)が集中してみられる地域です。古津八幡山古墳は県内の古墳の中で最大級の大きさの古墳で、越後平野の各地域の豪族が共同して推し立てた王(有力な豪族)の墓であった可能性も考えられています。

古津八幡山古墳の発掘調査
古墳の復元整備工事に先立って、2011~2013年に発掘調査を行いました。調査の結果、直径約60mの円墳で、斜面中ほどに幅約4~5mの平坦面(テラス)が巡ることが明らかになりました。見つかった土器や古墳のつくり方などから、古墳時代前期の終わりから中期の初め頃(西暦400年前後)につくられた古墳と考えられます。
古墳は周濠を掘って出た土をおもに利用して、中心部に小さな丘のような高まりを、外側に土手をつくり、その間を土で埋めて平らにするといった作業工程を4回ほど繰り返すことで高くつくられていました。場所によって使用する土を選ぶなど高い土木技術を持っていたことがわかりました。作り方には畿内の古墳と共通する点があり、畿内政権から技術者が派遣されてきた可能性も考えられています。

古墳の頂上も発掘調査を行いましたが埋葬施設は確認されませんでした。頂上では一辺約11mの四角形にわまる溝がみつかりました。この溝は西暦900年頃(平安時代)のもので、建物または墓に伴うと考えられます。この溝を掘る時に頂上が大きく削られ、埋葬施設が壊された可能性があります。

舟戸遺跡 

古津八幡山古墳の盛土の下や周辺では弥生時代後期(1~3世紀)の竪穴住居が多く見つかりました。古墳時代の建物などはなく、その頃の集落は麓にあったと考えられます。古津八幡山古墳をつくった豪族の屋敷(居館)は近くの古津駅周辺の舟戸遺跡が有力です。

 

新潟市のサイトを見ると、復元整備されて公開が始まったのは8年前の2015年4月だそう。調査時や復元前後の墳丘比較写真なども掲載されていて大変興味深いです。

古津八幡山古墳について 新潟市

 

さあ墳丘へ。

 

左をみると、見事な周溝が。

 

周濠についての解説も。

周濠
古墳の南西側(周濠A)と南東側(周濠B)に周濠があります。周濠Aのほうが規模が大きく、最大幅約13m、当時の地表面からは最大で4mも掘削を行っています。周濠Aと周濠Bの間は途切れており、通路のような役割があったと推測されます。古墳のこの周濠を掘って出た土を用いてつくられていますが、それだけでは土の量は足りず、周濠以外の地表面も毛売るなどして補ったと考えられます。

 

テラスを進んで振り返って。

 

墳頂への階段です。

 

広い! 気持ちよい!

復元高で墳頂平坦面の面積が決まるのだと思いますが、ステージのような印象でした。

 

越後平野の眺め。

 

ズームすると、デンカビッグスワンスタジアムも。


弥彦山も!

ぐるり見渡せる眺望が欲しいところですが、木々も育つので悩ましいですよね。

 

南東側を見ると、竪穴住居が!


整備工事中でしたので、邪魔にならないように…

 

その一画にあった可愛らしい墳丘は「前方後方形周溝墓」

 

説明板も。

前方後方形周溝墓 全長13m(方台部)

方形の墳丘(後方部)の北側に通路のような突出部(前方部)のある墳墓です。集落が終わってまもな弥生時代終末期か古墳時代初頭につくられました。墳丘は残っていませんでしたが、復元しています。

 

遺跡に来るのに誤って北側の細道を上がってしまったので、西麓の資料館から弥生遺跡エリアに入り直そうとしたのですが、資料館が休館で挫けてしまいました。

 

古墳手前の説明板にあった航空写真。

丘陵の東上空からの遠景だと思います。右に古津八幡山古墳、左が竪穴住居集落で丘の高いところに前方後方形周溝墓。背後に広がる越後平野。