朝酌(あさくみ)川が大橋川に合流して中海に流れ込む直前には、川に沿って幾つかの古墳があります。そのひとつが朝酌小学校校庭古墳。
かつての小学校の敷地の一部が公民館となっており、上がって行くと階段の先に説明板が見えました。
和久羅の丘
この丘陵は歴史とロマンを秘めた和久羅山麓の南端に位置し、6世紀後半の頃、この地方を拓いた豪族の古墳(石棺式石室)があります。また明治43年から昭和62年までの77年間にわたり朝酌小学校用地であり幾多の人材が育った由緒あるところです。
その先に開口部が。
そこから左には、かつての校庭が広がっています。
開口部を正面から。校庭にこんな石室があったとは。
開口部は幅50㎝、高さ1mほど。
しゃがんで入って正面の壁。左上角が一部、精密加工で補填されています。
右を向くと床面に板石が。
ここで目線を上げたところが奥壁でしたが、現地では入った正面が奥壁と思い込んでいて、実の奥壁を撮りそびれていました。
奥壁を背にしたものは撮ったのですが。
上記の左手の開口部。
石室内の位置関係はブログに起こしている今、額田大玉さんの記事を読んでいて知りました。
そして、そこから350mほど南には朝酌岩屋古墳があるのですが、自分は看板だけしか見つけられなかったのでした。
岩屋古墳
直径18m、高さ6m余りあり、幾分縮小されているが、ほぼその原形を知ることができる。石室の位置は塚の南にあり、凝灰岩を切石組み合わせた朱塗りの円墳である。平成7年3月 朝酌ふるさとづくり推進委員会
石室は、この看板のまさに後ろのお宅の敷地内・「裏庭」にあることを、これも額田大玉さんのブログで知った次第。
事前調査不足。
機会を見つけて訪ねたいと思います。ご在宅であれば…