岩屋後(いわやあと)古墳は岡田古墳群(八雲立つ風土記の丘)の東側、意宇川との間の田んぼの中にあります。
農道を北側からアプローチ。土盛りの上の三角が露出した石室材。
左のビニールハウスの先に、ここで向きを東に変える意宇川が流れています。
「出雲東部を中心に分布する石棺式石室の典型例」だそうです。
岩屋後古墳(県指定史跡)
昭和45年10月27日指定
意宇平野の南西隅、丘麓の水田中に位置するこの古墳は、県下最大規模の石棺式石室を内部主体にもつものである。古墳の墳形は不明だが20m前後の規模と推測される。石室は図のように羨道部・前室部・奥室部に分かれるが、後世の破壊により現在は奥室のみ遺存している。羨道部の壁を割石で積むのに対して前室・奥室の壁はいずれも一枚の切石で構成する。特に奥室天井石は内外面共に平入り四柱式の家形に加工し、出雲東部を中心に分布する石棺式石室の典型例として注目できる。
遺物は明治年間に墳丘を削り取った際出土したと伝える人物埴輪(5体以上・東京国立博物館蔵)が有名だが、近年発掘調査に伴って円筒埴輪・須恵器等も検出されており、盗掘を受けているとはいえ、被葬者の生前の勢力の大きさをしのばせるに十分なものが多い。
古墳築造時期は6世紀後半と考えられ、近くに遺存する岡田山1号墳・御碕山古墳(いずれも前方後方墳・割石積横穴式石室)と同時期であることが注目される。
島根県教育委員会
北東側から。
表面がごつごつした石材はゴジラのような雰囲気。
南東側から。
天井石は内側も屋根型に加工されているのがわかります。
南西側から。もともとはこちら側に前室、羨道が続いていたと思われます。
天井石が半分無くなった奥室。
内側は精密に加工されていました。石棺というには天井高がありすぎますが、天井内側が家形加工されていると石棺的な「石棺式石室」
平入りなので正面は側壁。
反対側の側壁。