墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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河内大塚山古墳 大阪府羽曳野市南恵我之荘・西大塚

2022年5月21日の古市古墳群巡り、最後に恵我ノ荘(えがのしょう)駅で下車して河内大塚山古墳を一周しました。

 

駅からグーグルマップに従って歩いていくとこの場所に。

 

細道脇には羽曳野市の説明板。

大塚山古墳
東除川と西除川にはさまれた台地の上に築かれた大型の前方後円墳で、現在は陵墓参考地として宮内庁が管理しています。後世に砦が築かれたことなどもあって、当初の形が変わっているところもありますが、幅の広い濠をへだてて望む姿は雄大です。
墳丘の全長や約335m、後円部の直径180m、高さ20m、前方部の幅230m、高さ4.5mで、全国5位の規模をもっていますが、埋葬施設の構造や埴輪の有無などに関して詳しいことはわかっていません。
古墳が造られたのは近畿地方で前方後円墳の築造が終わりをとげようとする、6世紀前半と推定する説が有力で、それだけに、なぜこれほどの規模で造られたのか、そこに葬られた者の人物像、古市古墳群の中心部からやや離れた場所に造られた理由など、古代史を考える上でも重要な問題をもつ古墳として注目されます。
河内ふるさとのみち 羽曳野市

 

「この先行き止まり」の看板がありましたが…

 

人は行けました。北東側の渡り堤の近く(渡れません)

 

左(南)に後円部方向を。

 

右(西)方向は前方部先端側。

 

雄大な墳丘です。墳丘長335mは全国で5番目の大きさ。

 

スマホ広角で。手前側が前方部左裾角になります。

 

堤上の道を西に突き当たると、もう一つの説明板と北西側の渡り堤。

河内大塚山古墳
河内大塚山古墳は、西大塚の東除川西側に発達した、中位段丘面に築かれている。周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m、前方部幅230m、後円部直径185m、前方部高さ4m、後円部高さ20mをはかる。前方部はほぼ北面する。人工の造山だが、後円部頂上は海抜45mに及び、松原市内で最も標高が高い。
墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平板低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」と呼ぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集」(山口県立文書館蔵)に「磨戸石」と呼ぶ巨石が18世紀後半の宝暦~明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石や花崗岩が柴籬神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること。
このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。
中世には、丹下氏が古墳を利用して丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわれさた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神の天満宮(菅原神社)が祀られた。
大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。
6世紀の安閑天皇や、欽明天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。
松原ライオンズクラブ 2010~11

 

前方部先端側の濠を見通して。

 

前方部右裾側の角へと延びる渡り堤。

 

墳丘の西側面の濠。

 

人の入らない墳丘は野鳥の楽園?

 

周回する道歩きは家並みも見応えあり。

 

後円部先端側の濠には水が溜まっていません。

 

後円部脇から前方部方向を振り返って。こちら(南)側が少し高くなっているよう。

 

後円部側の頑丈な扉。

 

後円部先端側の住宅街を抜けて墳丘の東側へ移ると、再び水を湛えた濠。

 

手前が後円部、奥が前方部。

 

パノラマで。


東側の道は民家などを一列挟んでいます。途中の駐車場で目の前が開けたので墳丘を。

 

そこから前方部側。

 

左を向いて後円部側。

 

最初の説明板のところから駅へ戻りました。

この日の歩数は4万歩を超えました。

 

翌日、セスナから見た河内大塚山古墳。

前方部先端側が真ん中で少し尖っている”剣菱形”(濠も)であることがわかります。