墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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誉田御廟山古墳(応神天皇陵) ・誉田丸山古墳 大阪府羽曳野市誉田

2022年4月末の古市古墳群見学バスツアーは、河内こんだハニワの里 大蔵屋さんがオープン3周年を記念して開催したイベントでした。

http://okura-hd.jp/release/220401.html

 

お昼は大蔵屋さんで「はにわ弁当」をいただき、悩ましいほど豊富な古墳グッズのショッピング。



お弁当会場の窓から見えた誉田御廟山古墳。

「山」ですが、左奥が前方部、右に後円部の感じがつかめました。

 

午後の部は、その誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の周りを歩くところからスタート。

史跡古市古墳群
史跡 応神天皇陵古墳外濠外堤
所在地:羽曳野市誉田3丁目・5丁目
指定:昭和53年10月30日
古市古墳群最大の応神天皇陵古墳(全長425m)は、百舌鳥古墳群(堺市)にある日本最大の仁徳天皇陵古墳(486m)に次ぐ巨大な前方後円墳です。3段に築かれた墳丘の高さは36mで、積み上げた土の量は約143万㎥と推定され、仁徳天皇陵古墳を上回るとも言われています。
墳丘の周囲には2重の濠と堤が巡らされ、古墳の西側では幅50m、高さ3.5mの大規模な内堤の外側に、幅およそ60mに渡って外濠と外堤の跡がよく残っています。
外堤の外側に造られた東山古墳(方墳 一辺の長さ50m)とアリ山古墳(方墳 一辺の長さ45m)は、応神天皇陵古墳に付属する陪塚と考えられています。アリ山古墳では刀や鏃、鎌や斧など、鉄製の武器や農具、工具が多量に埋蔵されていました。
応神天皇陵古墳が築造された古墳時代中期中葉(5世紀前半頃)は、前方後円墳の墳丘がもっとも巨大化する時期にあたり、それとともに、濠や堤、陪塚などの外周施設が発達していたことがわかります。
羽曳野市

 

右の緑は内堤、歩いている道があるところは外濠内で、左に外堤がある、という位置関係です。北西に向かっています。

 

内堤上に木々が密生していて、なかなか墳丘が見えず…

 

チラリと見えました(中央奥)

 

外濠の道を振り返って。

 

その先で、川の手前を右に回り込んで前方部の先端側へ。


少し上っていきます。歩道の青色は川のイメージでしょうか。

 

ほどなく応神天皇陵の拝所入口に到着。

 

その先に、荘厳な拝所がありました。

 

そこにあった説明板。

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)
古市古墳群で最大の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)は、墳丘の長さが425mの前方後円墳で、境氏の仁徳天皇陵古墳(大山古墳、長さ486m)に次ぐ第2位の規模をもっています。3段に築かれた墳丘の高さは36mで、盛土の量は全国一の約143万㎥と推定されます。
墳丘の周囲には濠と堤を巡らし、複数の陪塚(付属の古墳)を配置しています。
古墳時代の中期(5世紀前半)に築造されたと考えられ、規模や構造がもっとも発達した最盛期の巨大前方後円墳の姿を示しています。

 

誉田丸山古墳
応神天皇陵古墳の北側の外濠と外堤に接して、陪塚の一つである誉田丸山古墳が造られています。直径50m、高さ7mの大型の円墳で、円筒埴輪とともに家形、蓋形などの形象埴輪が立てられていました。江戸時代の末(19世紀中頃)に発掘された金銅製の鞍金具(乗馬の際に用いる鞍の飾り金具)は、龍の文様を透かし彫りで表した豪華なもので、国宝に指定されています。
羽曳野市

 

拝所の北東に、上記の誉田丸山古墳が隣接していました。

 

誉田丸山古墳と誉田御廟山古墳内堤との境。鉄格子は排水溝です。

 

位置関係をグーグルアースで。

 

5月にセスナから見た誉田御廟山古墳。拝所が白く見えています。そのすぐ右上が誉田丸山古墳。

 

上の写真では切れてしまいましたが、誉田御廟山古墳の後円部の南側に誉田八幡宮があり、その境内からチラリと後円部先端側裾が見えます。(こちらも訪ねたのは5月、セスナの前日)


石造の太鼓橋は、放生橋。

 

渡るのは難しそう。

 

こちらが拝殿。江戸初期の築。

 

拝殿を右(北)に進むと、放生橋に突き当たります。

 

神社のサイトによれば、神輿が太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りするという祭礼を毎年続けてきたのだそう。

由緒・沿革

 

誉田丸山古墳から出土した国宝の金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)を宝物庫で拝観できます。ただし土曜日の午後1時から4時までの間のみ。

宝物紹介

訪ねた時は土曜日でしたが、4時を回ったところでした…