墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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大室古墳群(大室谷支群)その1 長野県長野市松代町大室

前回の姫塚古墳は4月8日に訪ねた最後の古墳で、その日の最初に訪ねたのは大室古墳群(大室谷支群)でした。大規模な古墳群でしたのでシリーズで紹介していきます。

長野駅から車で1時間弱で到着。700mほど手前で道幅の狭い住宅街を通り抜けますが、グーグルマップの案内そのままに進むと、軽自動車でないと曲がれない角に嵌り込む可能性があります。一本東側の大室公民館前を通らないルートを推奨します。

https://www.city.nagano.nagano.jp/uploaded/attachment/47874.pdf

 

大室古墳群の主要部となる大室谷支群は、その名の通り谷地形に展開する群集墳です。

平地に出る辺りでも幅200mほどの、細長く緩い傾斜の北向きの谷でした。

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広い駐車場から一段上がると展示施設の大室古墳館。開館は9時から。

大室古墳館 - 長野市ホームページ

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エントランスに、大室谷の模型がありました。

中間やや右の緑のプレートが現在地で、赤い丸がすべて古墳!

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国史跡として指定されているエリアだけで17ha、奥まで1400m。

展示館周辺のエントランスゾーンだけで30基近く。

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展示館では古墳について詳しく学ぶことができます。

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大室古墳群全体の概要です。古墳群全体ではなんと500基超。尾根上に3つ、その間の谷に2つの支群を有します。オレンジ部分が大室谷支群。

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大室古墳群と史跡整備
大室古墳群は、長野市松代町大室を中心として分布する約500基の古墳群の総称です。
石を積み上げて墳丘とした「積石塚」や、「合掌形石室」と呼ばれる特殊な埋葬施設が集中することから、他に例を見ない遺跡として平成9年7月28日に国の史跡に指定されました。
古墳群は、地形的には「北山」「大室谷」「霞城」「北谷」「金井山」の大小5つの支群に分類されています。このうち、もっとも規模が大きい大室谷支群が、国史跡指定地となっています。現在実施している史跡保存整備事業は、この貴重な歴史遺産を長く保存するため、古墳とそれを取り巻く環境を整備し、あわせて、公開の場としても積極的に活用することを目指しています。

 

かつて千曲川は、丘陵のすぐ北を”山際に湾入して”流れていたそうです。

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大室古墳群と千曲川
大室古墳群が立地している長野盆地の東部山地は、出入りに富んだ山脚線を呈しています。北山支群、霞城支群、金井山支群は、千曲川に突き出た尾根上に古墳が形成され、これらの尾根にはさまれた山麓の谷部に形成されたのが大室谷支群、北谷支群です。
こうした古墳群の立地環境は、産地からの土砂の運搬堆積と山際を流れていた千曲川の浸食作用によってできたものです。古墳時代には千曲川が山際に湾入して、自由蛇行いたと思われます。現在は、大室古墳群と千曲川の距離は離れていますが、当時は古墳群を囲むように流れ、隔絶された死後の世界を形づくっていたのではないかと考えられます。
千曲川の移動蛇行によって形成された小島田、牧島、大室など自然堤防には弥生時代以降の遺跡がみられますが、約250年にわたって大室古墳群を築造した継続的な集落の存在はまだわかっていません。
北山支群から金井山支群までの約3㎞に及ぶ独特の地形環境と類似した環境はほかに見あたりません。大室古墳群を築造した人々は千曲川の旧河道と背後の山地による隔絶した空間を墓域として選地し、何代にもわたって古墳を築いてきたことが想定されます。

 

500もの古墳には番号が付いているとのこと。先人の偉業です。

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古墳番号の付け方の順序はどうなっているのか?
栗林紀道氏は、1号墳から474号墳まで番号をふり、あとからイ号墳からオ号墳までの27基の記号を新たに付け加えています。その後、駒澤大学の分布調査により、KM1号墳からKM4号墳が新たに加わりました。現在史跡整備事業を行っていますが、その段階で新たな古墳も見つかっています。
古墳番号の付けられた順序をたどると、炎天下、厳寒期に林の中を踏査した際の苦労がしのばれます。昭和20年代のこうした地道な調査のあとを番号の順序から振り返ります。

 

明治大学名誉教授の大塚初重先生が、戦後間もない時期に発掘調査されていました。

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史跡 大室古墳群
大室古墳群は日本最大の積石塚群です。約五百基の積石塚が山麓傾斜地や谷に沿って、数十のグループに分かれて分布し、あたかも古墳群をのこした背後の古代の村の姿を示しているようです。
積石塚の中には合掌形石室や箱形石棺のほかに多様な形式の内部主体が見られ、西暦5世紀から7世紀までの墓制の変化が明瞭です。
千曲川をひかえた大室の扇状地は、馬の飼育に長じた朝鮮半島からの渡来人たちの活躍の場でもありました。これまでにも多くの馬具類の出土、馬頭や土馬の供献祭祀跡の発見から、馬の飼育に関係した人々の墳墓群と考えられます。
1951年(昭和26)以来の学術調査によって漸く大室古墳群の一端の姿が解明され始めました。馬の飼育という新しい技術と文化に挑戦した古代の大室の人びとの活動を、積石塚を通して思いおこしていただければ幸いです。
平成14年7月7日 明治大学名誉教授 大塚初重

 

以前に明治大学博物館で拝見したスケッチに再会。

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「素晴らしき古墳との出会い~大塚初重スケッチ絵画展」 @明治大学博物館・御茶ノ水 - 墳丘からの眺め

 

資料館でいただいた貴重な小冊子と案内図。

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3枚の案内図には、それぞれ数十の墳丘の位置と番号が。

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その多さに圧倒されつつ…

 

まずは資料館のすぐ隣にあった235号墳を見学。

右半分が消失しています。

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235号墳
■墳丘 円墳(大きさ不明)
■埋葬施設 横穴式石室(無袖形)
■年代 6世紀後半
墳丘の半分が失われ、本来埋まっている横穴式石室の裏側が露出している古墳です。このような姿になりながらも横穴式石室が崩れず残ったことは、古墳時代の土木技術の高さを示すものといえるでしょう。
整備は墳丘の半分が失われた姿のまま行い、石室の裏側を観察できるようにしました。
長野市教育委員会

 

開口部を。奥壁上部も消失しています。

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斜め横から。普段は内側からしか見られない石積みを、土の中側から観察することができます。

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奥壁側には大きな石材が置かれていました。

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斜面上側(南東)から。

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建物が大室古墳館で、その奥に235号墳が見えています。

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ここから右へ、林道を上がります。

 

この先のエリアは杉の樹林の中。ルートは左。

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立札には昭和60年に大塚先生指導のもとでの第三次学術調査が実施されたことが記されていました。

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資料館の方には特に注意喚起されなかったのですが、案内図の注意書きに「クマ」もあったので、熊除け鈴を持ってこなかったことを後悔しつつ。

時々「ほー」とか声を出していたので、逆に他に探訪者がおられたら怖かっただろうと…

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下記は千曲市の情報ですが、熊は明け方や夕方に活発に活動するそうです。

ツキノワグマの出没にご注意ください!/千曲市