前回の岩脇古墳を見た後に三次市を後にして江の川を遡るように国道54号線を南西へ。
甲立(こうたち)古墳は、西からの本村川が江の川に合流する、甲田(こうだ)町の北側丘陵先端に立地。
芸備線の甲立(こうたち)駅から北北西に1.5㎞。Wikipediaによれば甲田は、1956年に甲立町と小田村が合併した際に双方から一文字ずつ取った町名だそう。甲立=かふたちは、川立(かはたち:川の真っ直ぐ流れる箇所)に通じる、と紹介されている。
多目的広場の駐車場の、手作り感のある看板。
裏には写真入りの案内板。
今、改めて見ていて2号墳があったことに気づきました…
発掘調査の様子が複数の写真で紹介されています。
最初は林道っぽいです。
階段が整備されているところはさすが国史跡。
あと140mのサイン。
斜面での距離は長く感じます。
上記の壁の前を左折して進むと到着です。発掘調査中の幟旗あり。
左後ろが後円部先端でした。
詳しい解説です。甲立古墳は4世紀後半の前方後円墳でした。全長78m!
国史跡 甲立(こうたち)古墳
平成28年3月1日 国史跡指定
中国地方の代表的河川江の川(可愛川:えのかわ)と支流が合流する交通の拠点に面した、菊山南東麓の尾根斜面上に立地する前方後円墳である。全長は約78m、後円部の最大径や約56m、前方部長約30mの規模で、広島県内では最大級の古墳である。
段築成は後円部3段・前方部2段で、墳丘斜面全体には精緻な葺石がよく残る。
墳丘は均整がとれており、墳丘規格どおりに施工する高度な墳丘築造技術が見てとれる。平成22年度からの発掘調査では貴重な発見があった。特に後円部墳頂からは中央部の長大な墓坑、家形埴輪5基の樹立痕が残る石敷区画のほか、外縁では楕円筒埴輪など数種類の埴輪で構成された埴輪列を検出するなど遺構が良好な状態で保存されていた。埴輪には、切妻造高床建物の家形埴輪、船・甲冑などの器材埴輪、円筒埴輪などがあり、いずれも精巧な作りで畿内中枢出土の埴輪と遜色がないものが出土している。古墳で行われた埴輪祭祀・葬送儀礼あり方を知ることができる。
これらのことから甲立古墳は、古墳時代前期末(4世紀後半)に畿内のヤマト政権の直接的な関与のもと築造された古墳で、当時のヤマトの古墳造りそのものが具現化されたといえる。4世紀後半はヤマト政権が朝鮮半島との交流を活発化させ、外交・交易路の重要拠点に大型の前方後円墳が造られる時期で、内陸の山間部にヤマトの古墳が築造されたという点で、当時の社会情勢やヤマト政権の対外政策の在り方を示している。
平成29年3月1日 安芸高田市教育委員会
測量図部分のアップ。
大きな後円部。背後から下ってくる丘陵斜面を削り出しているようです。
切株が沢山残っていますが、甲立古墳は平成20年1月に新たに発見されたのだそう。
後円部墳頂の様子。墳頂周囲を囲むロープ越しに。
葺石がいたるところに見られました。
安芸高田市のサイトでは発掘調査時の墳頂写真が見られます。
広島県教育委員会のサイトには、大和政権が朝鮮半島と対外交流において関係を深めた4世紀後半に、当古墳が瀬戸内海と日本海を結ぶ内陸部に築造されたということは大和政権の対外政策の在り方を知る上で重要だと記されていました。
広島県の文化財-甲立古墳 - 広島県の文化財 | 広島県教育委員会
後円部端から前方部を。ブルーシートを踏まないように足を運びます。
灌木の間から甲田の町が見えました。
前方部へ渡って振り返った後円部を見上げます。
スマホ広角でも。
前方部の先端側は急斜面になっていました。
途中まで降りて、後円部方向を。
広角で。
前方部端の斜面。カメラの水平は合っていると思います。
横から、くびれ部を。右が後円部。
後円部裾には葺石がゴロゴロ。
集められている一画も。
左が古墳の後円部。右は北側の丘陵。
丘陵側に少し上がって振り返った甲立古墳。大きな後円部の右後ろに前方部もちょっと見えていると思います。
今回は訪ねる余裕が無かったのですが、安芸高田市歴史民俗資料館では甲立古墳のコーナーがあるようです。
「おうちミュージアム」での動画解説がありました。古墳の概要は3分。
埴輪編は4分半。
次の機会では実際に博物館を訪ねて、現物を拝見したいと思います。