前回のつづき。
馬場町公園の南西縁に沿って、配水塔をちらちら眺めながら北へ回り込んでいくと、素敵なビュースポットがあった。
ここです。
向かいの斜面の階段状マンションが、谷地形を強調している印象。
住宅の屋根が、波打つ湖面のようでは。
降りていくと、ここにも、明示された暗渠が。
暗渠を確認しつつ南西へ向かうと、殿山公園の斜面下側入口が。
このときは梅が満開でした。
梅のそばにあった説明板。戦国時代まで存在した城郭址とのこと。
寺尾城の遺構
寺尾城は戦国時代に、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守五代にわたる城址である。永禄12年(1569)10月、武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は没落したといわれている。城跡には、当時の空堀・土塁・曲輪など中世の城郭が残り貴重な遺跡となっている。
町名の馬場・諏訪坂などに城のようすが今に伝えられている。
鶴見歴史の会
これが土塁? どこがどの遺構かはよくわからず。
斜面中腹からでも眺望よし。
さらに急坂を上ります。
上がったところに横浜市の説明板。ちょっと読みづらくなっていました。
寺尾城址の発掘
殿山公園から西方にかけての丘陵一帯は、寺尾城址として古くから知られていました。平成5年12月に、殿山公園の整備事業に伴うハックt調査が財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターによって実施されました。
調査は、東西に延びる「空堀(からぼり)」の一部を含めた丘陵頂部の170mの範囲を対象として行われました。発掘調査の結果、空堀は、断面が底の狭いV字形を示し、壁の角度(勾配)が50~70度と急傾斜で、地表面から堀の底までの深さが約3m、底の幅は約1mでした。堀のなかには土塁の崩落によると推測されるローム土が多量に堆積し、上位からは江戸時代の宝永年間に噴火した富士山の火山灰が発見されました。このことから、この堀は18世紀初頭には大部分が埋まってしまったことが明らかとなりました。
この発掘調査によって、「新編武蔵風土記稿」に記され、「寺尾城址」として伝承されている中世城郭址の存在を初めて考古学的に裏付けることができました。
平成6年3月 横浜市教育委員会
そこから50mほど西へ進むと、また谷地形が見渡せました。
南欧風の屋根瓦がきれい。
ツアー隊は、鶴見のアマルフィと(勝手ながら)呼びました。