墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

友山・武香ミュージアム  埼玉県熊谷市冑山

甲山古墳のすぐ近くに、友山・武香ミュージアムというピンが立っていたので訪ねてみました。 

 

恥ずかしながら、現代陶芸ギャラリーのようなイメージを勝手に想像していましたが、全くの見当違い。

江戸から続く豪農屋敷の長屋門で、幕末から明治にかけて活躍した地元の名士、根岸友山(ゆうざん:1809~1890)・根岸武香(たけか:1839~1902)父子の資料館でした。

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建物部分の全長は24m。

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門の高さもしっかりと。

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熊谷市の解説板もあった。江戸後期の築。

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市指定文化財建造物
根岸家長屋門
指定日 昭和54年5月
所有者 根岸友憲
根岸家:根岸家は、江戸時代中期以降、甲山村、箕輪村の名主を務め、約80町歩以上の土地を所有する豪農でした。
長屋門(構造)
根岸家長屋門の構造は、入母屋造りの瓦葺きで壁材は土壁です。外壁は下部の腰壁部分が板張り、それより上部は漆喰仕上げで、門部分は壁面より後退し、右側に潜り戸を有しています。脇部屋には出格子窓に似た窓が配され、両脇部屋は使用人住居や倉庫、剣術道場として使われました。屋根裏部屋には、与力窓を両脇にそれぞれ二箇所備えています。
長屋門(規模)
長屋門の規模は、桁行24.15m、梁間5.78m、棟高約7.3m、面積約140㎡です。建築年代については定かではありませんが天保11年(1840)の屋敷絵図にはすでに長屋門が描かれていることから、江戸後期の建築と思われます。
平成15年3月 熊谷市教育委員会

 

 父子の功績をたたえる詳しい説明板。

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熊谷市のサイトにも詳細が。

根岸友山 | 熊谷デジタルミュージアム

 

根岸武香 | 熊谷デジタルミュージアム

根岸武香は考古学の業績も残しており、江戸幕府が編纂した「新篇武蔵国風土記稿」を明治12年に80冊を”出版印行”したのだそう。

 

内側には扁額が。

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その片側が「友山武香ミュージアム

扉が開いていて、入場無料とあったので入ってみた。

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中には沢山のパネル資料と、中央に舟が。かつて荒川はたびたび氾濫したそうで、そのときの避難用に実際に使われたものとのこと。

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埴輪の写真に思わず引き寄せられました。

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そこにあった解説。

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武香と考古学
日本の考古学研究の先駆けとして、明治10年9月東京帝国大学のE.S.モース教授は大森貝塚の発掘調査を行いました。この時、武香38歳。すでに好古家として研究心旺盛な武香は、米国人学者による発掘調査に触発され、その年の11月、黒岩横穴墓群の発掘を行いました。その成果が翌年発表されるとヘンリー・シーボルト公使やモース教授、さらに多くの好古家や文人、学生が頃岩横穴墓群を訪れました。
明治19年、武香は創設まもない東京人類学会に入会すると、従来の古物趣味的な好古家から研究としての考古家への道を歩み出しました。そして気運は吉見百穴の発掘へと高まっていったのです。

 

明治20年8月、根岸友香は吉見百穴の調査(当初数日の予定が半年!)に坪井正五郎とともに参加し、その後の遺跡の保存にも尽力していた。

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敷地内にある近代和風建築も気になりましたが、 非公開のお住まいのエリアでした。

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12月6日でしたが、長屋門のそがにはきれいに染まった紅葉がありました。

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門前には枝ぶりのよい桜の木が並びます。開花の時期は見事でしょう。

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