今回は出土した埴輪が有名な野原古墳群。塩古墳群の3㎞ほど東に位置する。
由緒ある八幡神社が鎮座する場所。
道路対岸から。左に、神社と古墳群の説明板がある。
前半は神社の解説。
八幡神社と野原古墳群
所在地 熊谷市野原
八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は御鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永20年(1643)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社伝の棟札に記されている。また、宝暦11年(1761)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社へ御供米一斗二升が献納されていたという。
社前にある一対の石灯籠は、天保3年(1832)前田信知の後室が「武運長久、家士安穏、采地村民安全」を祈願し献納したものである。
なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。
荒川の一支流和田川に面した南傾斜の小高い丘にある古墳は、昭和初年には30余基を数えたが、開墾や採土等により損壊され、今は20数基を残すのみである。
有名な「踊るはにわ」(昭和5年出土、国立博物館蔵)が出土した前方後円墳も神社西方にあったが、現在は開墾されて桑畑となり、その跡をとどめていない。
これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われたものといわれ、当時、この地方にかなりの勢力をもった豪族が居住してことを物語っている。
平成11年12月 埼玉県
おそらく日本一有名な埴輪、「おどる埴輪」は上野の東博で常設展示室で見られる。
ゆるキャラ的な可愛さが人気の理由だと思うが、埴輪界では案外例外的(極端にプリミティブ)な表現では。
東博の説明には殯(もがり)などの葬送の場における歌舞の姿を写したものともみられるとある。
東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 埴輪 踊る人々(はにわ おどるひとびと)
Wikipediaには、踊りではなく手綱を持ち馬を引く「馬飼」(うまかい、馬子・馬曳)を表した像とする説が(近年では)有力ともあった。
神社の前の道路を西向きで。
検索して調べると旧江南町教育委員会の資料「江南町の遺跡5」に、野原古墳(前方後円墳・全長約40m・高さ5m、後円部径約16mで、後円部と前方部の二箇所に横穴式石室あり)があった位置が示されていたが、それが下の写真の藪の後方、斜面の5mほど上になるようだ。
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/iseki5.pdf
説明板の後ろ側にあった庚申塔など。
八幡神社の奥の院。
「今は20基を残す」書かれていたので、説明板の後ろの斜面を上がってみたが…
下草が刈られた気持ちのよい境内林だったが、土の膨らみは見当たらず。
奥の草むらが気になったが地面の様子はわからない。
一カ所、盛土が認められた。
よく見ると、上部に陥没部分がある。
草が多くて埋葬施設跡なのかどうかはわからなかった。
八幡神社拝殿に参拝して振り返った南方向。
このあと、向かいの丘にある古墳も訪ねてみた。