墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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山上古墳・山上碑(上野三碑) 群馬県高崎市山名町山神谷

ここから3回が上野三碑(こうずけさんぴ)シリーズになります。

日本に18例しか現存しない古代石碑のなかで最古の石碑群で、特別史跡に指定されるとともに、ユネスコの”世界の記憶”(危機に瀕した古文書や書物などの歴史的記録物の保護・振興事業)にも指定されている。

上野三碑 | 高崎市

 

三碑はいずれも高崎市内の、鏑川と烏川に挟まれ西から東に三角形に突き出た丘陵の周りにあり、飛鳥時代から奈良時代にかけて山上碑(681年)→多胡碑(711年)→金井沢碑(726年)の順に、半世紀の間に立てられている。

 

上信電鉄の吉井駅・山名駅を経由して三碑をめぐる無料の巡回バス(45分間隔)も、高崎市が運営中。

無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」を運行しています | 高崎市

 

自分は車で西山名駅の近くから北へ細道を上がり、まず山上碑(山ノ上碑)へ向かった。無料駐車場も完備。

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その北側に遊歩道がある。

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遊歩道の先は急な石段だった。上にいくほど斜度がきつくなるタイプ。

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上りきると、古墳にご対面。

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上ってきた石段を振り返って。向かいの丘陵の向こうに山名の古墳群がある。

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山上古墳(やまのうえこふん)に埋葬(追葬)された方について記したものが山上碑だった。

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開口部右側から。奥は山上碑を納めた建物。

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山上古墳の説明板。

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特別史跡 山上古墳(やまのうえこふん)
高崎市山名町2104番地
本古墳は、7世紀中葉(飛鳥時代)に築かれた円墳であり、岩野谷丘陵東南端を流れる柳沢川の北岸に所在する。南斜面を掘り込み、本丘陵に産する凝灰岩の切石を用いた横穴式石室を設け、直径15m、高さ5mの山寄せ式の墳丘を構築している。石室全長は現状で約6mだが、羨道前端が改変されている。玄室は長さ2.7m、幅1.8m、羨道は長さ3.3m以上、幅0.9m、高さ0.9mを計測する。玄室の奥壁はほぼ1石、側壁4石、天井2石から成り、精緻に構築される。古くに開口したため出土品は不詳であり、石室内には中世の石造物が置かれている。
傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家(さののみやけ:屯倉)の経営に連なる山名地域の首長の墓として完成し、その後辛巳年(681年)に縁者の黒売刀自(くろめとじ)が追葬されるに際し、供養のため碑が建てられたとみられる。南東1㎞の平野部にある山名伊勢塚古墳(前方後円墳・墳長65m・6世紀後半)に後続する首長墓だが、造営地は丘陵部に移動し、終末期古墳特有の立地を志向している。
本古墳のように、被葬者の名や葬送制度が推定できる古墳は日本でもきわめて希少であるため、隣接の山上碑とともに国特別史跡に指定されている。
2015年3月 高崎市教育委員会 

 

平面図を拡大。丘陵斜面を掘り込んで石室を設置し土を寄せた「山寄せ式」の墳丘。 

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開口部から後ろの様子。

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石室図では精密に加工されて、ほとんど隙間なく組まれた石の形状がわかる。

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石室には自由に入室できるが、羨道の高さ・幅は90㎝しかないので、かがまないと進めない。

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玄室に入って明王像(?)と対面。説明板には”中世の”とある。

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フラッシュで。奥壁は右上一部を除き見事な一枚岩。

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天井石は2枚。

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奥壁側から開口部を。

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そこから右の隅を。

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左の隅。

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玄室からの羨道部をかがんで。

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こちらが建物内にある山上碑。ガラス越しに見学(スイッチで明かりがつく) 

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ズームするとかなり判読できる。

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現地でいただいたパンフには、「碑文は日本語の語順に並べられており、現在につながる日本独自の漢字の使用法の原形が示されています」ともあった。 

覆い屋の前にあった解説板。

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特別史跡 山上碑及び古墳
(中略)
解説
山上碑は、輝石安山岩の自然石(高さ111㎝)に53字を刻んだもので、天武朝の681年に立てられた日本最古級の石碑である。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものである。黒売刀自は、碑の傍らにある山上古墳に埋葬されたと考えられる。
碑文にある三家(=屯倉)とは、6世紀~7世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点である。佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって存在していたとみられ、健守命がその始祖に位置付けられている。
碑の造立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と推定される新川臣(現桐生市の新川か)の子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子である。彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定される。この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明している。当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者だったと考えられる。また、山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、碑の造立に際しては渡来人も深く関わったと推定される。
なお、碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、7世紀中頃の築造と考えられる。その築造時期は山上碑(681年)よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられる(白石太一郎説)
以上のようにわずか53文字から、ヤマト政権と地方の支配制度、豪族間の婚姻関係や家族制度、地方仏教の浸透など多くのことを読み取ることが可能である、山上碑が一級の古代資料であることを証明しているのである。
平成23年2月28日設置 高崎市教育委員会

 

碑文の内容は”ヤマピー”の説明がわかりやすかった。

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