墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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柳井茶臼山古墳(前編) 山口県柳井市柳井

山口の旅の最終日、早朝の錦帯橋を渡った後は、車で45分ほどの柳井茶臼山古墳へ向かった。 

 

市街の東端の舌状台地を上がっていくと、立派に復元された墳丘があった。今回の墳行目的地のメイン。

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下記は柳井市のサイトから。

(柳井)茶臼山古墳は4世紀終から5世紀初めに造られた前方後円墳で全長約90m。

明治25年(1892)に地元の二少年によって偶然発見された。

出土品の単頭双胴怪獣鏡は、古墳から出土した鏡では日本最大で直径44.8㎝。

柳井市では平成6年度から公園として整備した。

茶臼山古墳 歴史の広場 - 柳井市ホームページ

 

現地にはQ&A形式の説明板が要所要所に。

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Q:茶臼山古墳が発見されたときのことを教えて
A:古墳時代の終わりとともに忘れ去られていた茶臼山古墳は、明治25年(1892)、二人の少年によって発見されました。
丘の上に不思議な穴を見つけた少年たちは、警察や消防組に通報し、大人たちの手で発掘が行われました。このとき鏡や剣、刀などが出土し、ここが古墳であることがわかりました。
地元では大鏡を国に寄贈し、もらったお金で石碑(柳井茶臼山獲古蔵遺跡碑)を建てました。

 

Q:公園になる前に茶臼山古墳にあった茶臼山神社と祇園社のことを教えて
A:明治26年(1893)、地元の人たちは石碑と併せて茶臼山神社を建立し、古墳の主を祀り、また古墳の周りに石柱を建てて神聖な区域として保存に努めてきました。
祇園社は、江戸時代には古墳上にあったことがわかっています。明治期にふもとの代田八幡宮に移され、昭和になって再び古墳の上に移されました。
この二つの神社は整備にともない、茶臼山神社は代田八幡宮に、祇園社は南側登山道脇に、それぞれ移鎮されました。

 

駐車場側から見上げるのは後円部の先端側。

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墳丘の周りには上記説明にあった玉垣が残る。

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古墳広場の図。

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標高は60mになるそうだ。

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茶臼山古墳ってどれくらいの大きさなの?
茶臼山古墳は4世紀の終わり頃に造られた前方後円墳です。このような形の古墳は大和朝廷の許しを得たものだけが造ることができたといわれています。
柳井市街地を見下ろす標高約60mの丘陵上に造られ、全長90m、高さは8mあります。これは山口県内では2番目の大きさです。 

 

後円部裾から右奥へ前方部。墳丘の西側面。

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そこから一望する柳井市街。 築造時は海(水道)が広がっていた。

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茶臼山古墳ものがたり、という劇画調の解説も。

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前方部裾まで来て振り返って。複製された埴輪は142本とのこと。

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前方部の先端側、一段下がったところに大きな説明板が見えた。 

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古代の地形と古墳の位置を示した立体模型だった。 

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ちょっと見にくいが、右端に茶臼山古墳で、左(南西)の島(大星山)の反対側、瀬戸内海に面して白鳥古墳がある。 

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両者の間は車で20分ほどの距離。

 

熊毛王とあるが、平生町や田布施町が属する郡名は「熊毛郡」だった。

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茶臼山古墳のほかに柳井の近くにはどんな古墳があるの?
現在の柳井市、平生町、田布施町の低地一帯は古墳時代には海峡(古柳井水道)だったといわれています。
茶臼山古墳をはじめ、平生町や田布施町にある主要な古墳はこの海峡に臨んでつくられました。これらの古墳は4世紀から6世紀にかけてこの地方一帯を治めた豪族たち「熊毛王」の墓です。
熊毛王の一族は、この重要な地域を支配し、海峡を通る人々にその権力を見せるため、これらの古墳をつくりました。 

 

なんと、周辺の7つの古墳が紹介されていた。このうち訪ねる予定をしていたのは後井古墳と神花山古墳の2基だけだったので、そわそわしてしまう。

まだ墳丘が残っているのか、残っていたとしても近寄れる状況にあるのかは調べてみないとわからないので。

白鳥古墳は行ってみようと決めました。

 

木ノ井山古墳

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木ノ井山古墳
丸い形をした円墳です。古墳の中央にある三基の埋葬施設は、木棺の周りを粘土で包む粘土槨といわれる方法でつくられています。この粘土槨は近畿地方で多く見られ、この地方と近畿地方との深いつながりを表じています。 

 

後井(ごい)古墳 

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後井古墳
県内最大の横穴式石室をもつ円墳です。石室の高さは、最も高いところで3.5mで、立ったまま石室内に入ることができます。また、すぐ横には同じ形式の2号墳があり、2基の古墳が並ぶようにつくられています。

 

納蔵原(なぐらはら)古墳 

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納蔵原古墳
近年の発掘調査により、円墳ではなく前方後円墳であることが確認されました。埋葬施設は横穴式石室で、墳丘上の一部には円筒埴輪がたてられていました。

 

阿多田(あただ)古墳

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阿多田古墳
平生湾に延びる半島の先端にあります。古墳築造当時は島であったと思われますが、川の運ぶ土砂が堆積して陸続きになりました。古柳井水道の西の入口にあたり、交通上重要な位置につくられています。

 

 白鳥(しらとり)古墳 

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白鳥古墳
全長が120mある県内最大の古墳です。江戸時代に白鳥神社が改築されるとき、鏡や装飾品が出土しました。鏡は白鳥神社の御神体として保管されています。

 

神花山(じんがやま)古墳

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神花山古墳
第二次大戦中、軍事施設を作るときに見つかりました。箱式石棺内に人骨が残っており、20歳代の女王が葬られていたことがわかりました。
現在は古墳公園として整備され、復元された女王の像がたてられています。

 

 国森古墳

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 国森古墳
県内では最も古い古墳です。その形は方墳と呼ばれる四角形で、前方後円墳が広まる以前に、この地方でつくられていた形です。
長方形の墓坑に木棺をすえ、中国製の銅鏡や鉄製の武器などを収めていました。

 

説明板から振り返る前方部先端。

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前方部右裾から。

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先端裾から前方部端を見上げて。

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足元にあった説明板。 

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茶臼山古墳は歪んで見えるけれど、どうして?
茶臼山古墳は、琴石山から南に延びる丘陵の先端部を削って造られています。地形に合わせて造ったため、古墳の中心線が折れ曲がったり、前方部の南側のラインが曲線になるなど、歪んだ形となっています。また古墳を真横から見ると、前方部の方が後円部より4m低く、下がって見えます。 

 

前方部斜面に取り付けられた階段をゆっくり上った(この先は後編で)

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このエリアの古墳を知ったきっかけは、大分市の亀塚古墳公園の資料館で見た「瀬戸内海の主要大型古墳分布図」による。瀬戸内海から眺める古墳クルーズがあれば、ぜひ参加したい。

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