墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

周防国衙跡 山口県防府市国衙

岩畑古墳見学後は、周防国衙跡へ。

毛利庭園からほぼ真南の市街地に国衙の跡がぽっかりと残っている。住所もずばり国衙

 

大化の改新以降に置かれた国府国衙。鎌倉初期の文治2年(1186)に東大寺造営料国として同寺の管轄となって明治初年まで環境が保たれ、その後も開発を免れた。昭和12年(1937)に国史跡に指定。

 

国衙跡の北側にあった説明板。

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国指定史跡
周防国衙跡 政庁域(二町域)
昭和12年(1937)6月15日指定
大化改新(645)以降、大和朝廷は、律令国家体制を整えていくなかで、地方を国・郡(評)・里に分けました。国にはそれぞれ国府国衙)を置き、朝廷から国司を派遣して政務を執りました。
この公園は、奈良時代から平安時代の初め頃まで国衙の中心である政庁(役所)があったと推定される場所で、国府域の中で最も重要な場所です。四方の広さは、ほぼ二町(一町=106~109m)あります。
東に接する地区には、国府に関わる金属加工等の工房が、北側には国司の住居があったとことが発掘調査でわかってきました。
平成14年3月 山口県教育委員会 防府市教育委員会

 

解説板の後ろから南側。 

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南側には石碑もあった。

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石碑近くの説明板。 

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周防国衙跡
大化の改新の詔(646)によって、中央集権的な律令国家体制が整っていく中で置かれた周防国国府後。政治を行う中心の役所である国庁が当地防府市国衙に置かれました。全国の国府が、律令体制の変質と衰退に伴い移転縮小したり、その姿を歴史から消したものが多いなかで、周防国府は鎌倉時代以降、東大寺の管轄となって、その機能や形態を変えながらも近世まで存在しました。
今は1基の記念碑に往古栄えた国府の面影をしのばせるのみであるが、国庁の後も土居八丁の区域も判然としており、全国の国衙跡の中でも重要な存在です。

 

周囲に木々があって民家が目立たず、古代人がこの土地を選んだ気持ちに同調できたような気がした。

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石碑近くには詳細な説明板も。 

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国庁の保存
広大な国庁跡は、関係者の深い理解と協力を得て、昭和39年度から公有化が進み、昭和47年度から盛土を始めた。
これによって、地下に眠る役所の建物群跡や、これをとりまく溝や井戸などといった国庁の各遺構がこわされることなく保存されている。
公園内は、発掘調査結果をもとにして、国庁をイメージしながら、次のように保存整備を行っている。
1.国庁域を足り囲んでいた築地の跡には、一段と高く盛土をし、サツキを植えてその位置を表している。
2.国庁内の通路は、直線状の園路で表現し、東門と西門の位置は園路の幅を広げている。
3.政庁などの中心的な役所の建物があったと考えられる位置には「あずまや」を設けている。
4.周囲の高い木は、まわりから国庁域の空間を浮き立たせる目的で植えたもので遺構の表現ではない。
5.照明には電力の省力化をはかり、21世紀へ向けて過去と未来をつなぐべく太陽エネルギーを利用している。
昭和62年3月 防府市 

 

写真部分のアップ。

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国府のしくみと仕事について。 

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国府には、中央政府が任命し地方に派遣される国司と呼ばれる役人がおかれた。国司は一人ではなく、「守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)」という役目の人がいる。そのほか中央から派遣される史生という下級書記官がおかれていた。
国の仕事は、国司と史生だけではできないので、地方の有力者からなる役人と一般民衆からとりたてられた書生(しょしょう)・徭丁(ようてい)・事力(じりき)などの下級職員が働いていた。そのほかにも文房具・兵器や日用雑貨の製作をする手工業者、あるいは雑務にたずさわる者などがいて、その数は数百人であったと推定される。
昭和36年から39年度にわたって国庁域の発掘調査を行い、次のことが明らかになっている。
1.国庁(国の役所)の広さは、東西約215m、南北約216mの方形で、そのまわりには幅3mの築地がつくられていた。
2.中心部の調査では、国司たちが政治をとっていた政庁、食事の調理をする厨屋、工具類を製造する工房(細工所)などと推定される諸施設の跡を発見した。
3.奈良時代の土師器や須恵器の甕・鍋・煮たきをするカマドの破片などと、平安時代以降の小さい竪穴や柱の穴と多数の土器を発見した。
禁煙、伯耆国鳥取県)、下野国(栃木県)などでは、南門・正殿・脇殿等の建物配置が明らかとなっている。
周防国でも、他の国府と同じような建物があったと考えられている。 

 

「国庁」の碑と国庁寺。

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「国ごとに庁あり。今や寂寥として聞ゆる無し。而して此庁独り在る」などと銘文に刻まれている「国庁の碑」は、安永7年(1860)国庁寺の候人上司主税平重寛、武嶋完次平重勝が建立したものである。
文治2年(1186)周防国は、源平争乱の時に焼失した東大寺の再興料国となり、大勧進俊乗坊重源上人が周防の国務管理に命ぜられこの大事業を完成している。
その後、周防国山城国法勝寺、京都感神院の料所に一時寄進されているが、寛喜3年(1231)再び東大寺の料国となり、東大寺大勧進が代々周防国を管理していた。しかし、大内氏の勢力が伸びるにしたがって公領も蚕食されて減少し、毛利隆元の時には八町四方に減少され、秀就の時はそれもまた東大寺の手を離れ蔵米を支給されることとなった。
また毛利氏の代には、国衙(庁)は国の役所の意味が失われて地名になると共に、庁舎は東大寺の一支院化し、国庁寺の名をもって呼ばれるようになった。「国庁」の碑を建立した上司主税平重寛、武嶋完次平重勝は、この国庁寺に仕えていた人である。
なおこの国庁寺は、明治4年(1871)解体され、本尊釈迦如来坐像、惣門(瓦葺・高麗門)などは重源上人が建立した東大寺別院の花宮山阿弥陀寺に移されている。

 

石碑前から東方向。右奥は駐車場。

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駐車場そばの十字路から北側。

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そのつきあたりが毛利庭園になる。

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そこから振り返った南側。山陽本線まで500mくらい。

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