墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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築山古墳 大分県大分市佐賀関

亀塚古墳探訪後は、東に5.7㎞の築山古墳へ向かった。

ここも別府湾に面しており、佐賀関半島の北側付け根に立地。

 

 

グーグルマップで、神崎八幡神社に導かれた。

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神社入口に詳しい解説板がある。

築山古墳は、昭和7年に未盗掘の石棺が発見された国指定史跡。

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国指定史跡 築山古墳
~海部を代表する大型古墳~
史跡データ
名称:築山古墳
所在地:大分市本神崎999番地
指定面積:2480㎡
指定年月日:昭和11年9月3日
築山古墳は、本神崎地区の別府湾を臨む丘陵端部に築かれた、全長約98mの前方後円墳で、海部では亀塚古墳に次ぐ規模を誇る大型古墳です。亀塚古墳が築かれるのとほぼ同じ、5世紀の初め頃につくられたと考えられています。昭和11年(1936)、国史跡に指定されました。
・石棺の発見
昭和7年(1932)、後円部で樹木の移植作業を行った際、2基の石棺が発見され、その後調査が行われました。石棺はいずれも緑泥片岩製の組合式箱形石棺で、内部には多量の朱が撒かれていました。南石棺には女性1体、不明2体の3体が埋葬されており、最初に埋葬されたのは、中央に埋葬された女性であることがわかっています。また、北石棺からは女性1体の埋葬人骨が出土しています。
・石棺から出土した遺物
南石棺には、15点の鉄剣・鉄刀や約90点の鉄鏃、鉄斧や鉄鍬先などの鉄製農工具類が多数埋葬されていました。女性人骨の腕には南海でとれるイモガイ製の貝輪が装着されており、頭上に鏡が置かれていました。一方、北側石棺の埋葬人骨には巻貝(オオツタノハ)で造られた11個の貝輪が装着されていました。
・海部の女性首長と畿内
4人の被葬者のうち、南棺の中央に最初に埋葬された女性が中心的な被葬者と考えられることから、臼杵市下山古墳と同じく女性の首長であったと思われます。また、埋葬に用いられた緑泥片岩製の箱形石棺は海部伝統の埋葬施設です。これらに海部地域の特色がみられる一方で、出土した多数の鉄製武器や農工具類は畿内から配布されたものと推定され、畿内の古墳と同様に円筒埴輪が用いられているなど、畿内政権との密接な関係も窺われます。
・海部と畿内政権
5世紀初めから前半頃、海部では亀塚古墳、築山古墳、さらに臼杵市の臼塚古墳、下山古墳と、大型の前方後円墳が次々とつくられており、豊後で最も多くの大型古墳が集中した地域でした。これは、畿内政権が瀬戸内海から朝鮮半島に至る海上交通路を掌握する上で高度な航海技術をもつ海部との関係を重視していたことが背景にあると考えられます。
大分市教育委員会

 

近辺の主要古墳の分布図。なかなかの集中度。わかりやすい編年表も。

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神社の右手の小山が墳丘のようだ。

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社殿の後ろに階段があった。 

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ここが後円部で、墳頂にも社がある。

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後円部墳頂の社は、石棺が出土した場所の覆い屋だった。石棺は2つ出土したが、こちらは南石棺の覆い屋。石棺はこの場所に埋め戻されているとのこと。

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そのことが書かれた解説。前出のものとほぼ同じ内容だが、文末で「覆い屋」に触れている。

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国指定史跡 築山古墳
築山古墳は、本神崎地区の別府湾を望む小高い場所に築かれた全長約100mの前方後円墳で、大分県内では第3位の規模を誇る大型古墳です。亀塚古墳が築かれるのとほぼ同じ5世紀初め頃につくられたと考えられ、亀塚に次ぐ海部の首長の墓と考えられています。
〇発見された石棺
昭和7年(1932)に2基の盗掘されていない石棺が発見され、調査が行われました。石棺はいずれも地元でとれる緑泥片岩でつくられた箱式石棺で、南石棺には女性1体、不明2体の3体が埋葬されており、最初に埋葬されたのは、中央に埋葬された女性であることがわかりました。また、北石棺には女性1体が埋葬されていました。
〇豊富な出土遺物
南石棺には、15点の鉄剣・鉄刀や約90点の鉄鏃、鉄斧や鉄鍬先などの鉄製農工具類が多数副葬されていました。女性の腕には亜熱帯の海でとれるイモガイでつくられた貝輪がはめられており、頭上には鏡が置かれていました。また、北側石棺の女性の腕にも11個の貝輪がはめられていました。
〇築山古墳の語るもの
石棺に埋葬されていた4人のうち、南石棺に最初に埋葬された女性が中心となる人物だったお考えられることから、臼杵市の臼塚古墳と同じく女性の首長だったと思われます。
出土した多数の鉄製品は畿内からもたらされたと推定され、5世紀初めの海部の首長と畿内政権との密接な関係がうかがわれます。
〇守り伝えられる築山古墳
石棺が発見された間もなく80年になりますが、出土した遺物は地元神崎で良好な状態で保管されています。そして古墳は「石棺さま」として神崎の人々に大切にされ、毎年10が鵜tには石棺さま祭りが盛大に行われます。
右下写真:南石棺覆い屋の内部。この下に南石棺が埋め戻されている。後円部墳頂に建てられた石棺の覆い屋。右が南石棺、左が北石棺の覆い屋

 

その後ろに、北石棺の覆い屋。 

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中には玉砂利が敷かれていた。

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覆い屋の壁に、地元有志の方による解説があった。

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文部省指定史跡 築山古墳
■発見
昭和7年4月、神崎村の数人が神社植樹のため鍬を入れ、石棺二個を発見した。発見者は、佐藤英雄、佐藤常次郎、甲斐寿平、宇和景人、飯塚太郎、丹生直人氏といわれている。
形式・完成年代
前方後円墳(全長90m)5世紀中頃
被葬者と副葬品
人骨4体(男性2体、女性2体)
鏡、貝釧、小玉、刀、剣、鏃、鎌、等々
■信仰
石棺が発掘されると「石棺さま」と称され、近郊の人々の信仰を集め、連日夜店が多く出るほどの賑わいをみせ、石棺出土の朱はお守りとして飛ぶように売られたと言う。今日当時の信仰は継承され、地区民によって「石棺講」が結ばれて、大祭(10月17日)、盆踊(8月17日)供養が毎年催されている。
■まとめ
約1200年前の資料である「豊後風土記」によると、“海部郡…此郡百姓並海辺白水(あまべのあま)郎也因海部郡”と、私達の祖先が海と共に生きてきたことをあらわしている。
築山古墳を中心に、神崎、馬場、木佐上築には確認されているだけでも16個の古墳が散在する。築山古墳の規模の大きさ(大分鶴崎を含めても有数の大きさ古墳の多さから、古代から神崎地区がいかに栄えていたかがうかがえよう。その理由には、豊富な海山の幸、自然災害の少なさなどが考えられる。
私達の郷土の歴史をたずね、文化財を守り、私達の父でもあり母でもある神崎の海山を守りましょう。
奉納1979年8月17日 神崎小猫 稲生亨

 

後円部墳頂、覆い屋を背にして前方部方向を。

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くびれ部のあたりは切通しで分断されていた。 

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側面から。左が後円部、右が前方部。 

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上記の道を奥へ行くと後円部裾に出て先は行き止まり。 

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そこから見上げた後円部。 

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前方部に上がって、切通しを覗き込む。

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振り返っての前方部。

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前方部の先端辺り。 

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振り返っての後円部方向。

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前方部からは北側に別府湾が。

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ズームして水平線を。

海からもこちらが良く見えたであろうことが実感できた。

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