壱岐にて3日目の朝、宿泊した郷ノ浦の街の近くに「 春一番の供養塔」があったので行ってみた。
港の突き当りの堤防に大きな文字で。
わかりやすい解説もあった。そういうことだったのですね。
「春一番」発祥の地
春一番
壱岐島が浮かぶ玄界灘は、航海の難所として知られている。
安政6年(1859)の旧暦2月13日は快晴で、鯛の好漁場といわれている五島沖の喜三郎曽根に元居浦のほとんどの漁船が出発した。
延縄(はえなわ)を張り始めたとき、南の水平線に突然黒雲が湧き昇り、間もなく強烈な南風が海上を吹き荒れ、船は転覆し、53名の漁民たちはなすすべもなく、船もろとも海中に消えていったのである。
漁民たちは、春先に吹く南方からの暴風を「春一番」「春一」「カラシバナオトシ」と呼んで以前から恐れていた。この悲しい事故後、元居浦では五十三霊慰霊碑を建立し、毎年、その日は、どんなに海が凪だろうと、沖止めをして、地域をあげて海難者の冥福を記念する行事を行っている。元居の漁民は、気象を敬い、学んで、観天望気にたけ、遭難なき安全出漁に徹している。
「春一番」の用語は、壱岐の郷土史家に目良亀久によって壱岐の漁村で使われていた言葉として収集されていた。壱岐の調査に訪れた民俗学者の宮本常一の目にとまり、俳句の季語として紹介され、以後マスコミでも使われ、気象用語として定着している。
現在では、歌謡曲の題名にも使われるようになり、事故の犠牲者の御霊を慰め、漁民の安全を祈願する希望の言葉になっている。
元居公民館 壱岐市教育委員会
そばにあった供養塔。
安政六、五十三霊、と刻まれた石碑。
崖上にある元居公園には、モニュメント像もあったようだ。
湾の先には、港を守る長い防波堤があった。
上記の右側。
郷ノ浦港の様子。右奥の山が前日訪ねた「岳ノ辻」になる。