墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

壱岐風土記の丘 古墳館・古民家園 長崎県壱岐市勝本町布気触

掛木古墳の隣には学習施設「古墳館」があった。

入場料100円、9時~17時・月曜休館

f:id:massneko:20200527153503p:plain

 

扉の内側には発掘調査時の貴重な写真や、見学した子供たちのメッセージが。

f:id:massneko:20200527154228p:plain

 

立体模型付きの大地図や、ジオラマも。

f:id:massneko:20200527154307p:plain

 

石室築造時の様子を再現している。 白い線は、その後に土を盛る範囲。

f:id:massneko:20200527153829p:plain

 

大きな天井石を斜路で引き上げている。

f:id:massneko:20200527153527p:plain

 

モデルは前方後円墳の双六(そうろく)古墳で、墳丘全体の範囲は床に線で示されている。 (石室は後円部にある)

f:id:massneko:20200527153856p:plain

 

たくさんの人々が手分けして築造に関わっていることがよくわかる。

f:id:massneko:20200528134746p:plain

 

真上から。

f:id:massneko:20200527153626p:plain

 

小さな人形だが、姿や表情がリアル。 

f:id:massneko:20200528134836p:plain

 

背中を向ける「指導人」と馬に乗る「首長」 

f:id:massneko:20200527153700p:plain

 

設計図は模型であったか⁈

f:id:massneko:20200527153804p:plain

 

解説パネルを読むと、壱岐島に古墳が多く造られた背景がよくわかった。

簡単にまとめると、6世紀後半以降、倭国と新羅や高句麗との関係が悪化し、壱岐島が国防の最前線となったことによる。

f:id:massneko:20200528134704p:plain

はじめに
壱岐では、現在約280基の古墳が確認されています。この数字は長崎県内で確認されている古墳の数の約6割にあたります。
昔の人たちは、大きな岩で組まれた石室の上に土を盛って造った“古墳”を「人間の手によるものではなく、きっと鬼が作った“棲家”に違いない」と考え、古墳を「鬼の窟(窟屋)・石窟・鬼屋」などと呼んでいました。
また、壱岐には「その昔、島には5万匹の鬼が棲んでおり、豊後の国(現在の大分県)から派遣された百合若大臣という名の若武者がすべての鬼を退治した」という鬼が島伝説が語り継がれており、壱岐に築造された数多くの古墳が伝説を生み出す一つの要因になっているものと考えられます。

 

それ以降の部分は、下記の別パネルに重複した内容で書かれていたのでそちらを。

壱岐島(いきとう)の古墳時代1

f:id:massneko:20200527154332p:plain

ヤマト政権の誕生から国家成立まで
今から約1700年前、4世紀に入ると西日本地域を中心に巨大な前方後円墳が築造されました。現在のところ3世紀後半から4世紀前半ころに築造されたと考えられている箸墓古墳(奈良県)が日本最古の前方後円墳とされています。古墳時代の政治政権(ヤマト政権)が近畿地方に誕生し、勢力が拡大するとともに、前方後円墳も全国各地に広がっていきました。
古墳時代の日本列島は弥生時代に引き続いて中国大陸や朝鮮半島と交流を行いながら、積極的に進んだ文物を入手していました。特に5世紀から6世紀にかけて朝鮮半島から伝わったあな窯で土器を焼く技術(須恵器の登場)、金銅製品、土木技術、騎馬風習などの先進文化は、後の日本列島が国家を形成していく過程の中で大きな影響を与えました。

 

壱岐の古墳時代の幕開け
壱岐島では古墳時代に時代は移っても、弥生時代に魏志倭人伝に登場する一支国(いきこく)の拠点として栄えた原の辻が集落として存続するものの、船舶の進化や更改技術の向上により海上交易ルートが変更され、それまでの“交易の拠点”から、“交易の中継点”へと役割がかわりました。新たな交易の窓口を求めて多くの人が壱岐島から九州本土へ移動した結果、原の辻集落は解体に至ったものと考えられています。これまで壱岐島における古墳分布調査及び発掘調査において箱式石棺墓や三連甕棺墓などの墓坑は発見されているものの、墳丘を伴う前期古墳は確認されておらず、現段階においては5世紀後半に築造された大塚山古墳が壱岐の古墳の始まりとされています。壱岐島では確認されていないものの、隣の対馬島では4世紀後半に築造された全長40mの前方後円墳・出居塚(でいづか)古墳(前期古墳)が確認されています。4世紀後半に築造された出居塚古墳(前期古墳)は5世紀に入り、倭の五王が中国大陸や朝鮮半島の国々と積極的に交流をし始める前段階において、対外交流を行い、重要な役割を果たしていた有力者が対馬島に存在していたことを物語っています。

 

壱岐島の古墳時代2

f:id:massneko:20200527154348p:plain

壱岐の古墳文化
長崎県内で約460基の古墳が確認されていますが、壱岐島内にはその約6割にあたる280基の古墳があります。
これまでに知られている壱岐最古の古墳は5世紀後半に築造された大塚山古墳(芦辺町)ですが、壱岐の残る大部分の古墳は6世紀後半~7世紀初めにかけて造られたものです。
6世紀後半~7世紀初めころの壱岐島は、島の中央部に壱岐を治めていた首長とその一族が存在していました。その首長や一族が島の中央部に次々と古墳を築造しました。築造された古墳の中には長崎県最大の前方後円墳である双六(そうろく)古墳(勝本町)、島内で2番目に大きい前方後円墳である対馬塚古墳(勝本町)、長崎県最大級の円墳である笹塚古墳(勝本町)、鬼の窟古墳(芦辺町)、兵瀬古墳(芦辺町)、長崎県内唯一の刳り抜き式家形石棺を持つ掛木古墳(勝本町)などの大型の巨石古墳があります。
これらの大型の巨石古墳の周辺には百合畑古墳群(勝本町)、百田頭古墳群(芦辺町)、釜蓋古墳群(芦辺町)、山の神古墳群(芦辺町)などの小規模な群集墳が築造されています。巨石古墳の周辺に築造された群衆墳の墳丘の規模は巨石古墳と比べるとかなり小型になりますが、巨石を用いた石室の構造や玄室の天井部をドーム状に築造する点など大型の巨石古墳の石室と多くの共通点がみられます。
7世紀代になると島内各地に古墳が築造されました。築造された古墳の中には、捕鯨の様子を線刻画で描いた鬼屋窪古墳(郷ノ浦町)や大家古墳(郷ノ浦町)など、副葬品ではなく線刻画で自分の存在を後世に残した珍しい古墳もあります。石室の構造も大型の巨石古墳の石室構造を継承しているものの、石の積み方が単純化し、玄室の天井は低くなります。墳丘の版築が緩く、墳丘の盛土が完全に露出し、石室だけが露出している古墳もみられます。

 

壱岐島の古墳時代3 

f:id:massneko:20200527154405p:plain

壱岐の古墳に眠る有力者たち
首長墓をはじめとする大型の巨石古墳の室内からは、死者に供えられた様々な器類(須恵器や土師器)のほか、金銅製の馬具や大刀飾り、大刀や鉄刀などの刀類、鉄矛や鉄鏃などの鉄製武器類、鉄斧や鉄製鍬先などの鉄製農工具類、銀製空玉やガラス製蜻蛉玉などの装身具類が見つかっています。それらの副葬品の中には、中国大陸や朝鮮半島製の資料も多く含まれています。特に北斉製の二彩陶器や緑釉を施す新羅土器などは、当時の古墳社会においても限られた有力階層しか持つことができなかったとても貴重な資料です。
6世紀後半以降、東アジア社会において、日本(倭国)と朝鮮半島の国々(新羅・高句麗など)との関係が悪化していきます。倭国は朝鮮半島の国々からの襲来に備え、壱岐島を国防の最前線に位置づけました。国防の任務には島内の有力者だけでなく、島外から赴任してきた有力者の存在も推定されます。また、島外から赴任した有力者の多くは、支配者を引き連れて壱岐島に移住してきたことが考えられ、島内の人口が急激に増加したものと思われます。
倭国と朝鮮半島の国々との対立が深まる東アジア社会情勢の中で、壱岐島の有力者は独自の交流ルートを確立し朝鮮半島の国々と友好的な国際関係を築いていたことが出土した副葬品からうかがえます。そのような歴史の中で、朝鮮半島の国々と独自の交流ルートを持つ壱岐島の有力者たちは国内において貴重な存在であり、朝鮮半島の国々との関係を取り持つキーマンとして欠かすことができない唯一無二の存在でした。また、朝鮮半島の国々からしても友好関係にある壱岐島の有力者たちは倭国との交渉の窓口として重要なキーマンだったと思われます。このように敵対関係にある倭国と朝鮮半島の国々との関係を取り持つ交渉人的な存在として壱岐島の有力者たちは重要な役割を果たしていました。 

 

この古墳館でいただいたパンフレット(A4・8頁)がまた素晴らしかった。

f:id:massneko:20200529210711p:plain

 

壱岐島の古墳280基(115か所)の分布地図!

f:id:massneko:20200529210637p:plain

 

古墳館の展示を通り抜けると、古民家園に出る。 

f:id:massneko:20200527154617p:plain

 

その解説。 

f:id:massneko:20200527154651p:plain

壱岐風土記の丘 古民家園
この古民家園は、壱岐島の農家の標準的な屋敷がまえを再現しています。母屋を中心に隠居、納屋、牛屋が建ち、屋敷の後ろには背戸の山と呼ばれる防風林があり、前にはマエハタと呼ばれる広い畑があります。
壱岐島の農家は、壱岐島を治めた平戸藩の農政の影響で、一か所に密集することなく、島中に散在しています。その多くは北西の風を防ぐために南東向きに宅地が造られており、私有を認められていた背戸の山と前畑は、ことのほか大切にされました。

 

中央が母屋、右が隠居、左が納屋。

f:id:massneko:20200526085528p:plain

 

母屋の屋根の形が面白い。

f:id:massneko:20200529103106p:plain

 

母屋の解説。

f:id:massneko:20200527155013p:plain

オモヤ(母屋)旧冨岩家住宅
オモヤは主人夫婦とその子供が住む建物で、ホンケ、ホンケヤともよばれます。
旧冨岩家住宅は、江戸時代中期ごろ(18世紀)の様式を備えた武家住宅(間口7間/13m、奥行4間/7.6m、棟高5間/9.4m)です。
寄棟造の屋根は小麦わらぶきで、前面が深く切り込まれた兜屋根となり、庇は桟瓦ぐきです。内部は左側に土間を配した3室2列の計6室にわかれる喰違六間取りで、正面中央の式台構えの玄関、仏の間は他の武家住宅にも見られますが、2階の居室、座敷の造り込みの神棚は同家だけのものです。

 

母屋の土間から南の3部屋。

f:id:massneko:20200527154724p:plain

 

土間のカマド。

f:id:massneko:20200527154820p:plain

 

その脇がヨコザ。

f:id:massneko:20200527154756p:plain

 

隣の部屋では主人が飯を待つ。肩をたたかれながら。

f:id:massneko:20200527154849p:plain

 

その先に、神棚のある座敷。

f:id:massneko:20200527154916p:plain

 

二階に上がることもできた。

f:id:massneko:20200527154952p:plain

 

こちらは牛屋。 

f:id:massneko:20200527155039p:plain

 

牛のマネキン(?)が非常にリアルだった。 

f:id:massneko:20200527155058p:plain

 

住所の「布気触」は「ふけふれ」と読む。

Wikipediaによれば、壱岐では市内の人が住んでいるか、住んだことがある場所の地名には必ず、浦・触(ふれ)・島の何れかが付き、浦は漁業・商業を中心とした地域、触は農業を中心とした地域(散村)、島は壱岐島周辺の島になるそうだ。

布気(ふけ)の由来は下記によれば、村の水神社に神様が来る時間が「夜更け」だったからといわれているとのこと。

http://www.iki-haku.jp/museumInet/ikf/vogGet.do;jsessionid=06CC4470E8608FD5C359F9C33C97CC80?id=19