墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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西都原古墳群(その12)第3古墳群後編(111号墳・4号地下式横穴墓) 宮崎県西都市大字三宅

第3古墳群北端の265号墳から南へ戻る。 

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整然とした円墳群。

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振り返っての265号墳。

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第3古墳群の南端には、階段の付いた円墳・111号墳がある。

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表土を除去して、築造当初の葺石を見学できるようになっていた。 

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墳頂には、重なるように埋葬部の印が。 

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そこにあった説明板。

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西都原111号の埋葬施設
111号墳の墳丘南側裾部には、地下式横穴墓(4号)が存在します。昭和31年に発見され奥行5mを超える長大な玄室(遺体を埋葬する部屋)を墳丘中心部に向けています。111号墳に伴う埋葬施設は、この地下式横穴墓のみと考えられていました。
平成14年(2002)から着手した墳丘長さの結果、墳頂部に3基の埋葬施設が存在することが確認されました。いずれも木棺直葬で、3基は重なり合って検出されたことから、構築時期が異なるものと判断されました。
最も早く構築された第1主体部からは、挂甲(1)、ガラス玉(多)、須恵器壺(1)、土師器碗(1)が出土しました。構築時期は、4号地下式横穴墓よりもやや新しく6世紀初頭と考えられます。 

 

西隣には発掘調査中の円墳も。 

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111号墳の南側には建屋があった。 窓から見る墳丘。雨宿りのひと時。

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111号墳は墳丘下に「4号地下式横穴墓」を持っていた。 建屋は周溝上の、地下式横穴墓の竪坑があった位置にある。

説明によれば111号墳と4号地下式横穴墓が造られたのは、ほぼ同時期とのこと。

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西都原111号墳と4号地下式横穴墓
西都原111号墳は、直径約28m、高さ約5mで、第3古墳群では最大規模の円墳です。4号地下式横穴墓は、111号墳の周溝内に竪坑を持ち、墳丘の中心部に向かって長大な玄室を掘り抜いています。つまり玄室は墳丘の下に造られているのです。
造られた時期
平成14年度の調査では、111号墳の周溝が全く埋まっていない段階で4号地下式横穴墓の竪坑が掘られたことが判明しました。
このことは、111号墳と4号地下式横穴墓がほぼ同時期に造られたことを示しています。その時期は副葬品などから5世紀の後半と考えられています。
地下式横穴墓と墳丘
墳丘の下に地下式横穴墓が造られる例は、西都原の他に、宮崎市六野原、えびの市小木原、鹿児島県串良町岡崎などでも確認されています。
墳丘と地下式横穴墓の関係は次のように考えられます。
①地下式横穴墓の墳丘として同時に造られるもの
②既に存在する高塚古墳に、後から地下式横穴墓が寄生的に造られるもの
③地下式横穴墓を掘った際の廃土を目印程度に盛り上げるもの
西都原111号墳と4号地下式横穴墓の関係は①と考えられます。
墳丘中の埋葬施設
111号墳本来の形を知るため、表土(古墳築造後に積もった)を除去する調査を行いました。その際、墳丘上面で埋葬施設が見つかりました。4号地下式横穴墓が中心的と考えられてきた111号墳に、墳丘中の埋葬施設が見つかったことで、それぞれの関係の検討が必要となっています。

 

このドアがおそらく地下へ続いているのだろうが、もちろんしっかり施錠。

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リモートカメラで中の画像を見られるようになっていた。

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2台のカメラのうち、玄室内のAは写らなかった。上記の画像は竪坑内のBカメラから。

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玄室を最大ズームしたがピントが合わず。 

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戦後になって、耕作中の馬が空洞に落ちたことで発見されたそう。

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地下式横穴墓発見の状況
4号地下式横穴墓は、昭和31年(1956)111号墳の周囲を畑として耕作している時に、馬が地下空洞に落ち込んだことで発見されました。遺体を埋葬する部屋(玄室)の天井の一部が陥没したのです。玄室は奥に長い妻入り型で、長さ5.5m・幅2.2mと地下式横穴墓では最大です。屋根形の天井と壁は一面に朱が塗られていました。床面中央には、白色の粘質土を貼った幅0.45m・長さ3.5mの細長い凹の床(屍床)が見られました。
副葬品として、鉄製短甲3領、直刀5振、鉄鏃1束(約50本)、珠文鏡1面、玉類(勾玉、管玉、小玉)、歩揺付金具片が出土しました。
4号地下式横穴墓や、現在まで一部の崩落箇所を除き原状のまま保存されてきました。

 

再調査の状況。

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再調査の状況
長年にわたり現地保存されてきた4号地下式横穴墓も、崩壊の危険性が高まっていました。そのため、平成14年8月と11月に再調査を実施しました。玄室内流入土の除去、竪坑の確認、実測と写真撮影などを行い、いくつかの新しい事実が明らかになりました。
屋根形の天井部は、玄室前部は寄棟形、奥部は切妻形で、天井と壁の全面に、掘削に用いた工具の痕(手斧の刃跡)が残っていました。
床面中央の屍床の前後には、長方形の掘り込み(土坑)が確認されました。これは、地下式横穴墓を造った時に掘られ、人頭大の石数個を配置し、遺体埋葬時には埋め戻されていたようです。その意図は不明ですが、埋葬儀礼に関わる鎮魂のためではないかと推測されます。

 

保存にも大変な手間と費用がかかっている。

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遺構の保存
5世紀後半に造られてから1500年もの間壊れることがなかった4号地下式横穴墓も、昭和31年(1956)に玄室天井の一部が陥没して以来、構造的な安定が崩れ、崩壊の危機に瀕してきました。
私たちの祖先が築いた文化財である4号地下式横穴墓を守り、後世に残していくことは、歴史を正しく伝えるうえで非常に重要であると判断し、保存見学施設を設置しました。
遺構の保護のためには、乾燥と水の流入を防がなければいけません。そのため、外部とつながっている竪坑を見学施設によって密閉しました。
また、天井部を保護するため、サポート(支持鉄骨)を設置し、天井とサポートの間を発砲ウレタンで充填しました。内側から天井を支える方法です。
遺構内部の様子は、2台設置したビデオカメラの映像をモニターで観察できるようにしました。遺構を密閉するとカビが発生し易くなります。それを防止するとともに、遺構表面を強化するための薬剤(樹脂)を塗布しています。薬剤は、土質によって異なるので、遺構に近い場所での実験を繰り返して選定しました。 

 

なお全国遺跡総覧にある調査報告書(下記からダウンロード可)には、地下式横穴墓内のカラー写真が掲載されている。当資料により、この地下式横穴墓が土を掘って造られた(石を設置したり、削ったりしたものではない)ことが確認できる。

つまり高塚墳丘を築いた後に、穴を掘り進めることもできることになる。

しかし、当資料には、「111号境の墳頂平坦面に埋葬施設が存在したとしても、これまで両者の位置関係の検討などから指摘されてきたように、111号墳は4号地下式横穴墓を埋葬主体とする墳丘であると捉えても差し支えない。」とあった(38頁)

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/3074

 

お隣の墳丘のブルーシートを柵の外から。トレンチの様子はわからず。

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すぐその先の分岐に戻る。 右へ向かうと考古博物館。正面の森が男狭穂塚古墳。

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その角地にも墳丘が。 

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解説によれば、馬の埋葬土壙もあるようだった。

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西都原東地区 ~古墳時代後期の群衆墳と馬の埋葬土壙~
西都原東地区では、平成13年の調査で、消滅した円墳(現在は復元)の周溝と、馬を埋葬した土壙が1基確認されました。
消滅した円墳は、周溝で出土した須恵器から、古墳時代の終わり頃に造られたことがわかりました。
この時期には前方後円墳の築造は行われなくなり、小規模な円墳を密集して築く例が多く見られます。
このように、密集されて造られる古墳を「群集墳」と呼びます。群集墳は、前方後円墳が首長権を表現しているのに対し、家族墓的なものに近いと考えられています。

・馬の埋葬土壙
古墳の周囲には、時折馬を埋葬した跡が確認されることがあります。古墳に葬られた人の生前の愛馬を、一緒に埋葬したのかもしれません。

・地中レーダーによる探査
西都原東地区では、現在では埋まっている古墳の周溝を確認するためにレーダー探査を行いました。
レーダー探査の結果、右の写真のように周溝の形がくっきりと浮かび上がってきました。これによって、古墳のもともとの大きさが、発掘調査を行わなくとも確認できました。
データー
167号墳(円墳)径約14m(現状)、高さ約1.5m(現状)
168号墳(円墳)約約12m(復元)、高さ約1.5m(現状)
消滅墳(円墳)径約12m(復元)
馬の埋葬土壙 縦1.7m、横1.4m 深さ0.9m