前回の1号墳から見えていた13号墳は、きれいに形を整えてられた三段築成の前方後円墳。
木々のところが台地端になる。平地部から見上げられる立地で、築造時にはその姿を遠くまで誇示していたのでしょう。
裾にあった説明板。比高差2.6mの傾斜地に築かれている。
墳丘の築造
古墳はまず、場所を決めて整地を行ってから造っていきます。13号墳は東に傾斜していく台地の端に造ってあるので、図のように古墳の高さは西側が低く、東側が高くなり、その高低差は最大で2.6mあります。傾斜していう様子は、古墳の表面を覆っていた石でわかります。
写真で見ると13号墳は石が良好な状態で残っており、最も下に根石とよばれる大きな石が横一列に並べられ、わずかですが左から右に傾斜しています。この根石は、復元工事が終わった今でも部分的に露出させています。現在芝の下には、写真のようにきれいに並べられた完成当時の葺石が姿を留めて眠っているのです。
その低い側の、前方部右裾から。全長は80m近い。
一段上がって左側面を。見学口に向かう男女あり。
お邪魔しないようにまずは墳頂へ。前方部から後円部を。
後円部上から前方部を。
後円部墳頂はコンクリで処理され、埋葬部の見学施設の一部が設置されていた。
西側には46号墳(中央奥)
その間は円墳で埋め尽くされている感じ。
先客が去ったので見学口へ。
開いててよかった。
扉の先のステップを上がる。
その先には埋葬施設があった。
このタイプの”竪穴式石室”は墳丘を築いてから上から穴を掘り、埋葬後は埋め戻すので墳丘内に空間は無い。本来は土や石で埋まっているところを取り除いて、見学施設が設けられている。
丸太をくり抜いた棺は鏡の下に残片があったそう。
粘土槨
13号墳の粘土槨は、粘土と人頭大の石で造った土台に、丸太を刳り抜いて造った木の棺を載せ、粘土と石で覆ったものです。
しかし、古墳が造られてから、1600年以上が経過する間に木はほとんど腐り、鏡の下に棺材と考えられる木片がわずかに残るのみでした。
棺床の小礫が赤いのは、古墳時代の人が僻邪(悪いものを遠ざけること)の色と考えていた赤色を施すために朱を木棺の下に撒いていたためだと考えられます。
丸太があった跡。撒かれた朱が鮮やか(オリジナル?)
レプリカの鏡、管玉の下に、レプリカの木片。
出土遺物
大正5年に行われた発掘調査では、粘土槨内部から鏡、刀子、勾玉、管玉など多数の副葬品が出土しました。
鉄剣は錆びて、本来の姿を保っていませんでしたので、出土した一部を基に復元的に製作しました。現在粘土槨内に設置してあるものは全てレプリカで、出土品は考古博物館に保管してあります
埋葬部の足元側にあった石積み。
埋葬時の通路跡とのこと。
確かにクレーンの無い時代では、スロープを設けないと重い丸太は入れられない。
作業用通路
この石積みは、粘土槨を造るときや被葬者を葬るときに使われた作業用通路を塞いだ跡と考えられます。
作業用通路は使用後土で埋め戻され内側の表面に石が積まれました。
この石積みは、大正時代の調査では確認されておらず、平成9年の再調査によって初めて確認されました。
土層についての解説もあった。
13号墳の墳丘は、黄褐色と黒色土のブロックを積み上げ、その間に柔らかな土を詰めて上から締め固められており、版築と呼ばれる層状の盛土層とは異なります。
土質調査で、黄色土は強度が非常に高い粘質土の土であること、黒色土が排水能力の高い土であることが確認されました。当時ここに住んだ人々が古墳に適した土を見分けて、強固で安定した古墳を築こうとしたことを示しています。
この土は乾燥すると割れが生じやすいので、覆屋の内部の湿度を高く保つための工夫をし、また土の水分の蒸発を抑えてカビの発生を防止する処理を施しました。
施設見学を出て、模型のある場所へ。
元々は墳丘全体に葺石が施されていたそうだ。
そこにあった説明板。
13号墳
13号墳は、4世紀後半に築造された前方後円墳です。
大正5年(1916)1月4~7日、内藤虎次郎・今西龍により発掘調査されました。その結果、後円部において粘土槨が検出され、三角縁神獣鏡1面、ヒスイ製勾玉2点、碧玉製管玉40点余り、ガラス製小玉110点余り、鉄剣1点、刀子1点、棺材と思われる木片等が出土しました。
宮崎県教育委員会は、平成7~9年(1995~1997)に発掘調査を実施し、墳丘は平坦面を含む全面が葺石で覆われた三段築成であることや、墳丘上に二重口縁壺が置かれていたことが明らかになりました。
墳長:79.4m、後円部径:43.2m、後円部高:7.2m、前方部長:38.6m、前方部幅:25m
少し引いても全体が納まらない。
パノラマで。