墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

今帰仁城跡 沖縄県国頭郡今帰仁村今泊

沖縄では車を借りて、今帰仁(なきじん)城跡まで足を運んでみた。

 

那覇中心部から高速を利用して1時間半ほど。

 

世界遺産琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する9つの資産のひとつ。

今帰仁城
かつて琉球に統一王国が樹立する以前の三山時代(北山、中山、南山)北山王の居城として「今帰仁城」が築かれ、沖縄本島北部(やんばる)の政治、経済、文化の拠点となったグスクである。今帰仁城は15世紀初頭まで隆盛を極めるが、北山最後の王、攀安知(はんあんち)が1416年に尚巴志の率いる連合軍によって滅ぼされてしまう。その後、監守制度(1422~1665)がしかれ首里王府から派遣された監守によって北部地域が統治された。
世界遺産登録:2000年12月2日
国指定:1972年5月15日
資産面積:7.9ha
緩衝地帯面積:25.3ha

 

駐車場に車を停め、交流センターで入場券(一般400円)を購入して「平郎門」へ向かう。自分たちはボランティアのガイドさんに案内していただけた。

 

門の前の「外郭」にも低い石垣が巡るが、ここは有料エリアの外。

 

城跡の形は、扇が綴じるような形で南側の丘上へ上がっていくが、途中に数段の石垣が立ちふさがっている。

 

その説明板。

大隅の城壁
今帰仁城跡の城壁は、ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれています。なだらかな斜面地を利用して幾重にも連鎖的に連なっています。城壁の外側に一定の間隔をあけて突出部を築くことで、城壁にせまる敵を横、あるいは斜めから攻撃できるように工夫された造りになっています。さらに、屏風型に波打つ様は沖縄の古謡「おもろさうし」に「もゝまかり、つみ、あけて」とあり、今帰仁城跡の城壁を百曲がりに積み上げてと謡い、蛇行する石積みの様子を伝えています。写真は昭和初め頃の大隅城壁です。戦災を逃れた今帰仁城跡の城壁は、その多くがオリジナルの城壁となっています。

 

屏風のように折れるが、どこもカーブで構成されていて角が尖らないのが、グスクの石垣の特徴。

 

門の手前にチケット確認ブースがあるが、石垣は外から眺めたほうが見ごたえがあった。

 

平郎門は昭和37年の琉球政府時代に修復されている。

 

その先のストレートな石畳。実は上記の修復時に新しく造られたのだそう。

 

カンヒザクラの並木で花見の名所となっている。このときは3分咲き程度だったが、直後に満開になったようだ。

 

並木道の左側に「旧道」が残っている。

 

旧道の解説。

旧道

平郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。本来の登城道は、平郎門から城内に向かって石階段の右手側にあります。
1980年の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないよう工夫されたつくりになっています。

 

旧道上り口から右後ろに谷戸状の地形、カーザフがあった。

カーザフ
城内でも一段と低い所で、カーは「川や湧泉」を、ザフは「迫(谷間)」を意味します。ここは自然の石が露頭しており、岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁を誇ったものと想像することができます。

 

足元には「ハブ取り」が。 自治体で設置してくれるのだそう。生きたネズミが餌として入っているとのこと。

 

旧道を上がって、新道を振り返る。

 

上がったところは大庭(うーみゃ)で、さらに一段上がると主郭がある。

 

大庭には琉球黒檀が植わっていた。

ちなみに上記の方言名「クルチ」は黒木のこと。

ガイドさんから沖縄言葉では、母音の「アイウエオ」が「アイウイウ」に、子音の「キ」が「チ」になると教えていただいた。

沖縄生まれの人の「うちなんちゅ」の「うちなー」というのは、おきなわが変化したもの(お→う、き→ち、なわ→なー)

信仰されている弥勒も「ミルク」となる。なるほどでした。

 

大庭にあった一本は、ほぼ満開。

 

大庭から大隅(うーしみ)を見下ろして。中には入れないが、かつて 戦時に備えて兵馬を養った場所のようだ。

 

パノラマで。

 

その先の水平線上に目を凝らす。

 

波のような形の島があった。奥に伊平屋(いへや)島、手前側に伊是名(いぜな)島が重なって見えている。

琉球の第一王統の祖先である屋蔵大主が伊平屋島に住み、第二尚王統の尚円王伊是名島に生まれたので、二王統の発祥の島と呼ばれているそう。

http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12547&menuid=4251&funcid=1

 

大庭の南東隅からは、城主に仕えた身近な人々が住んだと考えら志慶真門郭(しげまじょうかく)を見下ろせるポイントがあった。

 

万里の長城のような雰囲気。筑紫哲也氏が好んだ眺めとガイドの方から伺った。

 

そこから御嶽(うたき)の横を通って進む。

テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
御嶽(うたき)とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所です。
テンチジアマチジは御内原(うーちばる)の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽です。沖縄の古謡「おもろさうし」では「今帰仁のカナヒヤブ」と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な場所です。俗にテンチジアマチジと呼ばれ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で、場内の女官によって子孫繁栄、国家安泰、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。旧暦7月のウプウイミ、8月のグスクウイミでは、今帰仁ノロによって祭祀が執り行われます。

 

そこを過ぎると、城内で最も中心的な建物があったという主郭。 

 

ここには火の神(今帰仁里主所火の神)が祀られている(建物は戦後の改築)

 

今も参詣者が絶えないとのこと。

 

注意書きも現役。

 

「うちかび」は「打ち紙」と書く「紙銭」、つまり御先祖様があの世でお金に困らないように願いを込めて燃やすもので、今でも普通に使われているそうだ。

Amazonでも購入可。 

うちかび

うちかび

  • メディア: ホーム&キッチン
 

 

火の神の前にてガイドツアーは終了。ありがとうございました。

 

 主郭から見た志慶真門郭。

 

石垣の一部が台風で崩れてしまったそう。

 

下に降りていくことができた。 

 

下から見上げて。中央の石の山が崩れた石の山のようだ。修復は大変。

右の石垣の奥に、斜面下に水を汲みに行く道がかつてはあったそうだ。この城の弱点は城内で水が得られないことだったとのこと。頂上すぐ下で水が湧く首里城のような地形的恩恵はなかった。

 

志慶真門郭の解説。

志慶真門郭(しげまじょうかく)
この郭は志慶真門郭と呼ばれているところで、城内で最も東に位置する郭です。
志慶真門郭は昭和55~57年度に発掘調査が実施され、その結果、志慶真門郭と大庭(ウーミァー)との通路石敷が確認されています。郭内の当初の地形は緩やかな傾斜地で、宅地の造成工事により段差を設け、建物の建立がなされています。
建物は約6m×6mあるいは4m×5m程度の規模で、中に炉跡が見つかっています。瓦が出土しないことから、茅や板で屋根を葺いた掘立柱建物であったと考えられています。また、建物間を結ぶ石敷道や石段なども検出されました。それらの遺構は修景整備がなされています。
出土品には、武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、これらの出土遺物により「家族単位」の生活が営まれていたことが考えられます。石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされています。
なお、郭の南側にはかつて志慶真門があったことも明らかになっています。

 

帰りに歴史文化センターへも寄った。入館料は城跡見学に含まれている。

 

入口脇に置かれた古びた漁船。 

 

なんと311から7年後、今帰仁村沖で見つかった岩手県山田町の漁船だった。

 

館内にはさまざまな資料があった。

 

これは今帰仁城跡の模型。

 

今帰仁阿応理屋恵という神女の装身具には勾玉が。

 

謎が多いが興味深い。

勾玉とは?
勾玉は、日本本土では縄文時代から古墳時代の装飾品として知られています。
琉球諸島では12世紀以降、神女の祭具として古くから使われてきており、日本本土での年代と沖縄での使用されてきた状況には、かなりの時間差があります。
今帰仁阿応理屋恵といったくらいの高い神女は、勾玉や大扇・簪・衣装といった祭具を琉球王府より下賜されました。
この勾玉がいつ頃のものなのか、本土の勾玉とどういった関係があるのか、まだはっきりと分かっていないようです。
展示されている阿応理屋恵の勾玉の一番大きいものは黒曜石とされ、北海道十勝産のものではないかと考えられています。
他の勾玉は、蛇紋岩、玉髄を主体に、流紋岩石英・蝋石・碧玉・緑色片岩とされます。これらの石も本土から来たものとされています。
大きな勾玉を中心に、色や形が綺麗なものが正面にくるようにつなげていったようです。
材質も形もそれぞれに異なり、「いつ・どこで・どのように」作られて、琉球にたどり着いた石なのか興味はつきません。

 

別の階にはかつて使われていた道具類が数多く展示されていた。