墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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両宮山古墳 岡山県赤磐市穂崎

牟佐大塚古墳見学後は、県道(旧山陽道)を北西に3km進んで、国指定史跡の両宮山(りょうぐうざん)古墳へ。 

グーグルアースで前方後円形の墳丘や墳丘をとりまく周濠が明確に見て取れる。ちなみにすぐ西隣が備前国分寺跡。

 

県道沿いに駐車場があった。後ろが周堤でその先が前方部先端。もし陵墓や参考地に治定されていたら、このあたりに拝所が設けられていたはず。

 

大きな看板が。全長206mは岡山県で3位、全国でも30~40位の間に入る大きな墳丘。

国指定史跡 両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)~吉備の有力首長の墓~
墳形:前方後円墳
三段築成・発達した前方部・くびれ部側に造り出し
墳丘規模:全長206m(備前地域最大)
後円部径116m・高さ23.9m
前方部長110m・幅145m・高さ25.1m
周濠:二重周濠 周濠を含めた古墳総長:349m
内濠:水をたたえる(一部埋没) 外濠:水田・道路下
外表施設:埴輪・葺石なし
内部主体:不明
築造時期:5世紀後半
周辺の古墳:和田茶臼山古墳(国指定)、森山古墳、正免東古墳、朱千駄古墳、小山古墳、廻り山古墳
指定年月日:昭和2年4月8日、昭和53年2月8日追加 平成18年1月26日追加
赤磐市教育委員会

 

宮内庁管理下でないので、墳丘に上がることができる。

 

正式な(?)駐車場は停めた位置より少し西側、前方部左裾側にある雅媛の里・農産物販売所。 

 

そこに古墳の解説板があった。

両宮山古墳 和田・穂崎
両宮山古墳は5世紀の後半に築造された岡山県内では造山古墳、作山古墳に次いで3番目、備前地域では最大規模の前方後円墳です。
全長は206mであり、後円部の径は116m、前方部の幅は145mで、前方部が発達した墳形をしています。高さは25mであり、墳丘は三段築成を呈しています。くびれ部の両側には、極めて高い造り出しが設けられています。

古墳の築造当初は、墳丘の周囲に二重の周濠が巡っており、外濠を含む古墳の総長は349mに達していました。現在は外濠のすべてが埋没してしまい、水をたたえた幅約40mの内濠のみが確認できます。墳丘内部は未調査ですが、これまでのところ葺石や埴輪は見つかっていません。
昭和2年(1927)4月8日、国の史跡に指定されて現在に至っています。この古墳の周辺には、和田茶臼山古墳、森山古墳、正免東古墳をはじめ、小山古墳、朱千駄古墳、廻り山古墳を含めて、吉備地域屈指の古墳群を形成しています。
平成22年7月 赤磐市教育委員会

 

日本書紀に記されている、稚媛(わかひめ)伝説も。雄略天皇、自分勝手です。

両宮山古墳と稚媛(わかひめ)伝説
今からおよそ1500年前、このあたりは吉備上道臣 田狭(たさ)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。
田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇が自分の后にしてしまいました。任那の国司として派遣されていた田狭は、留守中に妻を奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。怒った天皇は田狭の子である弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず田狭の軍と結ぼうとしました。これを知った弟君の妻樟媛は、夫に謀反の心があることを知り、弟君を殺してしまいました。
妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったでしょうか。しかし、田狭のその後は「日本書紀」には記されていません。
それから十数年後、雄略天皇が崩御されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子を天皇にしようと田狭の子 兄君(えぎみ)らとともに画策。皇太子白髪皇子と争いましたが、やがて立てこもっていた大蔵に火が放たれて最期を遂げます。
「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿を稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのです。
赤磐市観光協会

 

駐車場の案内板のとおりに進んでいくと、見落としそうなくらい小さなサインが。

 

ちなみに最初の案内図にあった、下記の石碑の位置より手前です。

 

サインの先は民家の畑の間を通り抜ける感じ。奥の水面は周濠。

 

反対側の北方向。左は後円部。立っている場所は周濠の中になる。

 

後円部裾にはミツバチの巣箱が置かれていた。

 

まむしに注意の看板あり。

 

墳丘側面を前方部の方へ。ここがくびれ部のカーブか。

 

見上げると鞍部?

 

路沿いには駐車場にあったものとほぼ同じ内容の説明板。

 

大蛇のような枝ぶりの木。夜来たらびっくりしそう。

 

前方部の端に鳥居。 

 

両宮神社に参拝し、本殿を。

 

前方部が少し削られて境内地の平坦部を設けた模様。

 

振り返った樹林の先は周濠水面。

 

墳頂へ上がる路は無かった。元来たほうへ戻る。

 

案内板にあった別の路を上がると周堤上に出た。正面は前方部右裾。 

 

右奥の家の向こうに、先ほど墳丘へ向かったルートがある。

 

上記の左側を見たところ。右は前方部の先端。

 

前方部先端を真向いから。

 

振り返った先には、陪塚の森山古墳がある(一本杉が立つ場所)

 

前方部左裾前からパノラマで。

 

水を湛えた美しい濠。その内側に入れる機会は大変貴重かと。

 

前方部先端側の端正な周濠。ボートの練習ができるくらい広い?

 

右の前方部から左奥へ後円部。

 

その途中には造り出しが残っていた。最近復元工事が完了したばかり。

http://www.city.akaiwa.lg.jp/bunkazai/ichiran/cyuumoku/ryouguzan/5775.html

 

辿ってきた周堤上の路を振り返って。

 

周堤を降りて振り返って。

 

降りた先の道路にも案内表示があった。

 

こちらはこの後訪ねた赤磐市山陽郷土資料館でいただいたパンフ。航空写真が美しい。

 

パンフには、両宮山古墳は大古墳であるにもかかわらず葺石や埴輪が無く、造り出しからも遺物が出ていないので、「古墳の祭祀が完結していなかったのでしょうか」との記述があった。

 

前方部第一段目では「土塊積み(どかいづみ)」が確認されているとのこと。

 

「土塊積み」は今年の秋に國學院大學博物館で、青木敬先生のお話を聴いて知りました。

古墳時代中期・5世紀になって朝鮮半島から伝わってきたと見られる、鍬などの工具の発達により土を大きな塊で掘り出し積み上げていく土木工法で、墳丘を高く効率よく築造できるようになったそうです。

古墳の世界は築造技術も奥が深いです。 

土木技術の古代史 (歴史文化ライブラリー)

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