前回のつづきの赤羽台の北縁を伝う道。
崖下までは5階建て程の高低差がある。
遠くから電車の音が。
金網の隙間からズームすると、京浜東北線・高崎線・宇都宮線の鉄橋が。
道は緩く下り始めた。
鍵のかかるゲートの向こうに自転車が。
階段の下は草に覆われていたが。
左にカーブする坂道。右は星美学園の敷地。
坂の終わりが見えてきた。
下から振り返って。左に標柱が立つ。
「稲荷の坂」と、色あせた文字にて。
この坂道は、赤羽北1-3・4地先から赤羽台4丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と分かれ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂とよばれるようになりました。
角にあった稲荷社に参拝。
参道脇に並ぶ庚申塔。
詳しい解説があった。
小袋庚申堂の石造物群
北区赤羽北1-6 稲荷社地内
この地域は江戸時代には袋村と称され、村内は「大袋」と「小袋」の辻子(ずし)と呼ばれる二つの地域からなっていました。ここは小袋という辻子だったので、庚申堂も小袋庚申堂と呼ばれるようになりました。庚申堂には稲荷社の社殿より遠いほうから順に、次のような石造物が安置されています。弘法大師供養塔
阿弥陀三尊種子庚申待供養塔 元禄十五年十一月
阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔 寛文八年二月
庚申待供養青面金剛立像 宝永元年九月ここには庚申信仰についての石造物が二基あります。これらは人の体のなかに住む三戸(さんし)という虫が、干支でいう庚申の日の夜に体内から抜け出して天帝に悪事を告げ、人の命を縮めてしまうというので、虫が体内から出ないようにと一か所に集まって夜を徹して供養を行った記念に、袋村庚申講中の人々によって建てられたものです。
弘法大師の供養塔は、真言宗を開いた空海の遠忌を記念して建てられましたが、一部が破損していて造立年代や造立者は詳らかではありません。
千日念仏の供養塔は時間や回数をきめて千日間、南無阿弥陀仏という名号を唱えれば浄土に往生できるという信仰儀礼の記念に建立された塔です。袋村を中心とする十六か村の名主や結衆(けっしゅう)によって建立されていますが、このような複数の村の人々によって建てられた供養塔はあまり例がなく、貴重な文化財といえます。
これらは昔、現在の赤羽北児童遊園入口付近の路傍にありましたが、昭和30年代の前半、現在地に移されました。
平成7年3月 東京都北区教育委員会
江戸期に村人が災害に備えて「郷蔵(ごうくら)」を設けた場所でもあった。
郷倉跡と稲荷社
赤羽北1-6 稲荷社内
江戸時代、ここには袋村の郷蔵(ごうぐら)がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。
嘉永3年(1850)8月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建物の背後に杉の木立が描かれています。この絵図に関する古文書によれば。これは火事を防ぐための火除の立木であると書かれています。また、この時の村明細帳によれば、郷蔵は「籾稗貯穀囲蔵」と呼ばれ、籾八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えられ、このほかに稗四十四石の積み立て計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年具米の保管というよりは、どちらかというと災害や飢饉の際に村の人々が飢餓から自分たちを守る備荒貯蓄を目的とした郷蔵だったことがわかります。
現在、ここには大正7年(1918)3月に建立された石造の鳥居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは「御蔵」ともいう郷蔵の「御」を「オ」をいわずに「ゴ」と言ったりした結果とも考えられます。稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また現在は「穀蔵」稲荷と称されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれており、かつてはここが郷蔵であったことを示唆しています。
平成7年3月 東京都北区教育委員会
道なりに東へ、台地の先端を回り込んだ。
斜面を削って宅地を作ったことがよくわかる更地。
台地上の星美学園の敷地には古墳が残る。
擁壁沿いのストレート。
台地と線路が接するポイント。
金網越しに。
未来的なガード下。
振り返っての擁壁。
かつての村名が、ガード名として残っていた。