かみね山公園の展望台から公園の中を下り、麓にある日立市郷土博物館へ。
グーグルマップのルート機能は便利だが、上りも下りも同じ分数だったので傾斜は考慮されていないようだ。上りの時には要注意。
入館無料だが、1階に考古・歴史系、2階に民俗・産業系と分かれ、特別展示室もある。
https://www.city.hitachi.lg.jp/museum/page/p002089.html
まずは1階へ。
お目当ては古墳時代コーナー。
作った時には髭と冠(帽子)が付いていたと思われる人物埴輪。出土古墳は撮りそびれてしまった。
右は西大塚古墳群、左の2体は吹上古墳群1号墳の人物埴輪。
その1体は耳輪をつけたおしゃれな男子。赤い化粧も残っている。
その後ろには円筒埴輪。左端は朝顔形。
立派な家形埴輪は水木古墳群出土のもの。寄棟の屋根上に鰹木が載る。
古墳時代コーナーの見出しは「ムラからクニへ」
土器の話は興味深い。
古墳時代の日立(1)
3世紀後半から4世紀前半にかけて、土器の活発な移動がみられる。十王台式土器がほかの地域へ動き、十王台式土器文化圏のなかへは東海地方西部の土器がはいってくるのである。こした「地域のまとまり」という垣根を越えた人びとの交流がはじまってまもなく、古墳の築造が開始されるのである。日立地方では4世紀の古墳が見つかっていない。おそらくは久慈川中流域に最小の前方後円墳を築造した首長の支配下にあったのであろう。
右のケースにあったのは久慈川左岸の台地上(標高約50m)に営まれた金井戸遺跡(弥生時代末~古墳時代)の出土土器。
古墳時代の日立の解説は(1)から(3)まで。
古墳時代の日立(2)
5世紀になると、ヤマト政権の活発な軍事行動を受けて久慈川流域の首長層が動揺し、流域をおさめる首長権が中流域から下流域へ移ったと考えられる。これを受けて久慈川下流の日立地方でも前方後円墳の築造がはじまるのである。以後、下流域で大型古墳の築造がつづくのは、港として機能する河口を控えたこの地域の優位性を示すものであろう。
また、5世紀にはカマド、鍛冶の技術、石製模造品による神祭りが伝わってきて、人々の生活も大きく変化するのである。
前方後円墳の変遷(4世紀~6世紀前半)のマップと解説。
左端には富士山4号墳、五所皇神社裏古墳、中央に星神社古墳、梵天山古墳、高山塚古墳が。河口部には右岸に権現山古墳、別当山古墳、左岸に舟戸山古墳、西大塚1号墳・4号墳が記されている。行きたい場所が増えた。
久慈川流域で前方後円墳の築造が始まったのは4世紀のことである。この時期の大型前方後円墳は星神社古墳(金砂郷町)、梵天山古墳(常陸太田市)などで、いずれも中流域に築造される。
ところが5世紀になると、中流域では築造される前方後円墳の規模が縮小されるうえ、大型墳が円形の形をとるのに対して、下流域では大型前方後円墳、権現山古墳(東海村)が築造されるのである。このように首長墓の墳形が変化し、しかも築造される地域が変動するのは、流域の首長層がヤマト政権の活発な軍事行動を受けて動揺し、首長層が中流域から下流域へ移ったことの表れではないかと考えられる。
中流域の梵天山古墳や星神社古墳を訪ねたのは5年前。
展示へ戻って。
河口寄りの西大塚1号墳は竪穴式石室の小さな円墳だったが、見事な馬具や飾り大刀が出土している。
古墳時代後期になると、横穴式石室や横穴墓が伝わって来て、前方後円墳の築造は終わり埴輪も立てられなくなる。
古墳時代の日立(3)
6世紀の中ごろ日立地方に伝わってきた横穴式石室は、何度でも埋葬することが可能な構造で、特定の個人を対象としたそれまでの埋葬施設とは大きく異なるものであった。また、時を同じくしてはじまった土器の副葬は、埋葬空間を「死後の世界」と考えるようになったことを示している。そして6世紀後半には、有力な民衆層までが家族墓として古墳を築造するようになるのである。前代と異なるこうした様相は、この時期に古墳の性格や埋葬についての考え方が大きく変わったことを意味している。
赤羽横穴墓群B支丘1号墓から出土した冠金具は奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳出土のものと同じ形で、それまで身分の低い人々の墓と考えられていた横穴募の認識を覆した。
久慈川河口の左岸のあたり、大甕(おおみか)駅周辺には複数の古墳が集中する。最初のガラスケースの人物埴輪もこのあたりの古墳群。次の機会に訪ねてみたい。
上記の赤羽横穴墓群B支丘1号墓からは挂甲一領分の小札や玉類、耳環、馬具類も出ている。かなりの有力者だったのだろう。
同地域の横穴墓からは浜名湖西岸の湖西窯で生産された須恵器が出ており、海路のつながりがあったことを示している。
甕(みか)の原古墳群2号墳(六ツヶ塚)出土の大刀や鍔など。
古墳時代の前、弥生時代のコーナー。
古墳時代の後、律令時代(奈良~平安)のコーナーでは、昨年10月に国指定史跡に指定された長者山遺跡(長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡)についての特別コーナーがあった。
十王町にある奈良・平安期の遺跡で「常陸国風土記」に記された「藻島駅家」の有力候補地だそう。
海から陸にルートが変わっていった話も興味深い。
海道の変遷
律令時代には中央政府と地方との緊密な交通・通信機関として駅馬・伝馬の制があり、諸道には原則として30里(約16km)ごとに駅が置かれた。
東海道の一環をなす日立地方には、8世紀の前半に助川駅家が置かれ、蝦夷征討に重要な役割を担ったと考えられる。平安時代に入って太平洋岸の蝦夷征討が収束するとともに、海道の駅家の一つであった助川駅家は廃止された。以後陸奥国との連絡は久慈郡衙から白河関に至る山道に切り替えられたのである。
同遺跡からの土師器や須恵器、墨書土器など。
2階の民俗系の展示は「日立風流物」(操り人形を乗せたからくり仕掛けの山車)が目を惹いた。
御岩神社でお目にかかった姥神も。
一瞬、銃身に見えた削岩機。
日立鉱山の再現コーナーも。
特別展示室でも日立風流物が見られた。国指定重要有形・無形民俗文化財であり、ユネスコ無形文化遺産とのなっているそう。
博物館見学後は駐車場まで、かみね公園の斜面を登った。途中にあった日立市かみね動物園。
遊園地も。家族連れで賑わっていて、平和な空気に包まれていた。