墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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正法寺古墳 愛知県西尾市吉良町乙川

前回のつづき。

吉良歴史民俗資料館見学後、600m北の正法寺古墳へ歩いた。

スマホ地図によれば目的地は正面丘陵の頂。

 

上り口は正法寺からのようだったので、寺への石段を上がる。

 

上がって振り返ったところ。 

 

上った正面には薬師堂拝殿。宝永3年(1703)築で、内部には平安後期の木造薬師如来座像・木造阿弥陀如来座像を安置する。

 

西尾市による説明板があった。

寺伝抜粋 医王山 正法寺 曹洞宗
暦応2年(1339)足利氏が鳳来寺の僧玉林坊を招いて再建したと伝えられる。その際、本尊として鳳来寺から写された薬師如来像は、眼病にご利益があるとの信仰が厚い。
貞享4年(1687)幡豆の安泰寺の末寺となり真言宗から曹洞宗に改宗された。元禄15年(1702)に領主旗本津田外記(げき)の祈願所となり、幕末に至る。
境内に登る石段のふもとには、明治22年と昭和28年(13号台風)の高潮被害の水面を記した標柱が、被害の状況を今に伝えている。
平成18年3月 西尾市教育委員会

 

薬師堂から左に向かうと「古墳公園」が。

 

古墳の説明板がある。

国指定史跡 正法寺古墳
昭和2年3月16日指定 平成16年9月30日追加指定
正法寺古墳は、全長94mの西三河最大の前方後円墳で、平成13・14年度の発掘調査によって、墳丘が3段の階段状に築かれ、斜面には葺石が施されていることが判明した。南側のくびれ部には、祭壇として使用されたとみられる「島状遺構」が発見されている。なお、埋葬施設は未調査で、内容は不明である。出土した遺物には、各段に立て並べられた円筒埴輪と、古墳の頂上に立てられていたとみられる家形・蓋形などの形象埴輪がある。
古墳の築かれた時期は埴輪や墳丘形態の特徴から、古墳時代中期前葉(4世紀後半)と考えられる。本古墳は矢作川と三河湾を結ぶ水上交通の要所に築かれており、被葬者は三河湾、さらには伊勢湾に通じる交通路を配下に置き、強大な権力を有した豪族と考えられる。
西尾市教育委員会

 

墳丘の形は、説明板にもあるが左右対称ではなく、前方部前面が墳丘主軸線に直行しない(Wikipediaより。下記図も)

その理由は、自然の丘陵の地形を活かしつつ可能な限り大きく墳丘を築いたからで、3段築成の墳丘は2段目まで地山を削り出し、3段目は大半が盛土形成と考えられるそうだ。南側くびれ部には島状遺構があり、くびれ部との間から円筒埴輪が集中して出土したとのこと。 

 

木立の中に大きな墳丘。左が前方部、右が後円部。 

 

パノラマで。 

 

前方部裾へ回りこんでいくと、文部省による説明板があったが判読は困難。

 

前方部を主軸の裾から。

 

前方部へ上がって振り返ったところ。 

 

逆光で写らなかったが、三河湾が夕陽に輝いていた。

 

前方部上から後円部方向。

 

前方部側から後円部の、左側面。

 

反対側の右側面。こちらの方がカーブがはっきりしている。

 

後円部墳頂。

 

後円部から主軸上の先も低地が望めた。

 

グーグルアースで。 古墳時代の海岸線は遺跡分布などから現在より最大約10km内陸に入り込んでいたと推定されるそうなので(Wikipediaより)、当古墳は湾に突き出た灯台のように目立っていのだろう。

 

葺石で覆われた復元ジオラマ(吉良歴史民俗資料館の展示) 

 

後円部上から前方部方向。

 

同じ位置をパノラマで。

 

 上記の左側。後円部裾方向へは緩やかな傾斜。

 

紅葉していた一本。 

 

後円部裾から。左奥に前方部。中央が島状遺構?

 

墳丘のある丘の端から見た西方向。

 

南西方向。水平線上には佐久島か。

 

現地展望図によれば、条件がよければ志摩半島も望めるようだ。

 

薬師堂前の燈籠。

 

正法山古墳がある丘を、平地に下りて振り返って。

 

正法寺古墳から吉良吉田駅までは徒歩24分と出たが、次の電車が25分後だったので歩くことにした。橋の手前で振り返って。

 

矢崎川に架かる橋を渡った。

 

そこからの佐久島。この島にも訪ねたい古墳がある。

 

以前に沖縄行きの飛行機からも見えた。吉良は画面から右になる。 

 

駅への途中で。妻側半分が道路に沿って斜め切れた、赤い板壁の建物。

 

駅への踏み切りを渡る。すでに電車は停まっていた。ホームの左が吉良吉田の駅舎。

 

その反対側。ここから(後ろ側)が名鉄・蒲郡線。

 

名鉄・西尾線のホームは駅舎の向こうの3・4番線。

 

蒲郡行きは2番線。