前回のつづき。
この日の最後に訪ねたのは土浦北ICから車で8分ほどの場所、筑波山西麓から土浦で霞ヶ浦へ流れ込む、桜川の右岸に立地する松塚古墳群1号墳。
桜川沿いには他にも多くの古墳が残っているが、昇寛さんのサイト・埼群古墳館 (現時点で休館中)のおすすめカテゴリーにあった(はず)ので、ここを選んだ。
上記によれば、松塚古墳1号墳は全長69mの前方後円墳で、後円部径40m、同高6.4m、前方部高さ5.7mとのこと。
後円部裾に鹿島神社が鎮座する。
左が後円部、右が前方部。
墳丘に上がらせていただく。後円部の方向。
振り返っての前方部。
前方部墳頂には板碑があった。
前方部の先端裾。
こちらは後円部墳頂。
後円部墳頂から見た前方部側。墳丘上では前方後円の形状がしっかり把握できた。
前方部右下裾から。
左が前方部、右が後円部。
裾から見た後円部。
松原古墳群1号墳へ行く途中、マップ上に「大塚家住宅」の印があったので立ち寄った(古墳の約4km北西)
集落に入って道端に車を停め、スマホを頼りに歩いていくと中庭に出てしまった。
お住まいの雰囲気だったのですぐに修復工事中の長屋門をくぐって通りに戻る。
門前に説明板が。築300年ほどの重要文化財建造物だった。
国指定建造物 大塚家住宅
昭和51年2月3日指定
大塚家は、家系図によると太田道灌の子孫と伝えられ、小田家の家臣であったが、後に帰農し、代々の名主を務めた旧家である。現在の建物は、正徳から享保頃にかけて(18世紀前期)の建築と伝承されており、建築様式からみても妥当性をもつと考えてよい。
この建築のもつすぐれた価値は、いわば江戸時代前期の古い民家形式から江戸時代後期に普及する新しい民家形式への移行段階の要素を持つことにある。すなわち、平面構成が整形四間取りとなること、上屋柱を正面側柱とするため軒が高くなること、間仕切り上部に指鴨居(さしがもい)を多用すること、軒をせがい造りとすること、奥行半間の床間と持つこと、前面の柱間に孔子窓の痕跡がないことなどは新しい民家の傾向を示す。
しかし、部屋の入口に帳台構(ちょうだいがまえ)の痕跡を残すこと、側まわりに一間おきに柱を立てることなどは古い様式である。また、土間境の柱を喰い違いに配し、桁行の梁の上に他方の柱からのびる梁をあご架けにするといういわばT字形の梁架構も過渡的な姿とみなしてよかろう。土間下手の桁行方向にウマヤを突き出すのは当初からであり、この地方に類例が多い形式である。
主屋東の半間廊下は後世の改造である。
平成9年3月 つくば市教育委員会
文化財オンラインにも解説がある。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/143948
他のお宅や石塀も立派で、趣きのある集落だった。