前回の”外観編”に続く”室内編”。(写真多めです)
旧矢中家住宅・矢中の社(やなかのもり)は2010年からNPO法人による保全活動・公開運営が開始され、通常毎週土曜日に一般でも見学可能になっている。
玄関前にて”邸宅維持修繕協力金500円”を納めて室内へ。
NPOのメンバーで建築を学ぶ女性の方にガイドしていただいたが、その11時の回の参加者は自分一人だった。
若冲を思わせるような衝立の絵は南部春邦によるもの。
明治15年、山口県・萩に生まれ大阪で四条派に学び明治40年には東京で河合玉堂に師事した画家で、龍次郎氏とは親交があったらしく、この住宅を豪華に彩る何枚もの板戸絵や襖絵を戦前から戦後かけて手がけている。
玄関を上がって振り返ったところ。床は布目タイルによるモザイク模様。
頭上は格天井。
玄関を上がると隣の物置との扉下がスリット状に動くようになっていた。 奥の床にもスリットが地下室天井とつながっており、空気が流れているのがよくわかった。
お座敷へ向かう廊下の板戸には鶴。 以下もすべて南部春邦。
その裏側には花と蝶。
その対面、畳敷きの廊下を経て猿の絵。
その裏にはススキとすずめ。
まるで本物のススキが貼り付けてあるかのようだった。
花と猿の間、十畳の居間には昔の家具がそのまま置かれている。
カレンダーも40年以上前でストップ。
ふすまや作り付けの箪笥もそのまま「使われている」
工夫された特注の洋箪笥。
なんと前面は三面鏡。
ススキの先には書斎。
窓からは門の方を見下ろせる。窓は龍次郎氏が創案した「五層窓」で、外から内に向かって雨戸、硝子窓、カーテン(当時)、網戸、障子戸(夏は網戸に入替)という五層構造。それで外観が大きく突き出していた。
書斎の机には矢中龍次郎氏(1878~1965)が発明したセメント防水剤マノールの現物が。氏は(株)マノールを創業し、同商品は現在も販売されている。
http://www.manol.co.jp/summary.html
天井は四隅の竿縁が斜めなのは折り上がっているように見せるデザインのようだ。
続く座敷の襖絵は6連のモミジ。
長い間重なっていた2枚は全く色焼けしていない。
床柱のモミジが、海の底から泡が浮かび出てくるような非常に見事な木目だったが説明を聞くのに集中しすぎて撮り忘れてしまった。
その座敷の正面に庭がある。奥には筑波山が望めたそう。
山を借景と意識して北側に庭をつくったのだろう。籐椅子に座る龍次郎氏が想像できた。
L字の角を曲ってさらに続く廊下(を振り返ったところで突き当りが玄関)
その途中に台所や風呂場、トイレなどの設備がある。
いただいたパンフにあった平面図。上記は廊下1の北端からの南側。
こちらは当時の女中さんの部屋。
朝ドラのセットのよう。
こちらは台所。
40年以上前のモノたちがそのまま残っている。
博物館の展示のようだった。
炭を入れて使う据え置き七輪。
氷で冷やす冷蔵庫も。
その先に火を多用する土間がある。右隣は井戸。
風呂場は入口を覗くだけ。天井は換気仕様。
トイレの天井も。
通気の良さにこだわったおかげで、40年以上空家で放置されていたにも関わらず、板絵などが上質な状態で保全される結果となった。
居住棟から迎賓棟への入口。
最初に階段部屋。
上がった先の小部屋の窓。
隣に見える本館の屋根は不思議な形。日本家屋なのに棟がなくて屋上がある。
これこそが龍次郎氏が披露したかった「木造の陸(ろく)屋根」で、防水処理克服の実物モデルだった。
振り返ると続く部屋は豪華な応接間。
当時の家具そのまま。背面の暖炉上には昭和天皇・皇后の写真が飾られている。
隣の座敷とを区切る襖にはガラス小窓がついていた。
お座敷側から見た応接間。
お座敷の書院が繊細には、非常に繊細な組み小細工が。
そして1階に戻り、この建物のメインの部屋となる14畳の食堂へ。
庭側の調度の棚板は、長大な桜の一枚板。
板絵はやはり南部春邦。
扉上、四周を巡る小壁には、当時の国立公園全12箇所が描かれた水墨画(北川金鱗・画)
天井照明には中央も四隅にも通気口が設けられている。
この建物は建設当時から、「矢中御殿」として地域に知られてたそうだ。
和室用に作られた椅子。他の部屋の椅子も、畳上に置けるよう橇のような足になっていた。
食堂板絵のカワセミ。
気がつけば1時間以上が経過。ガイドツアー終了後、もう一度写真を撮りにひと巡りした。
最後に(昭和の)居間のこたつでお茶もいただけて、大変充実した時間を過ごすことができました。ありがとうございました。