前回のつづきだが、ここからが今回の墳行の本番。
2018年8月26日に開催された「堀学芸員と行く越前古墳巡りバスツアー」
http://www.town-echizen.jp/event/detail.php?242
鯖江駅に10時に集合してマイクロバスに乗り、越前町織田文化歴史館へ。
まずは当館の堀学芸員より「越前町の古墳と古墳時代の越前について」という講義を受ける。
”遠くからの参加者もある”とのことで前日夜中まで手を入れておられたというパワポ資料による、熱の入った解説を拝聴した。自分にとっては非常にエキサイティングな内容で、あっという間の1時間だった。
一部を紹介すると・・・
福井県は敦賀市の西端で「若狭/越前」に分かれるが、その越前は敦賀市の東、北陸トンネルが下を貫く山嶺で「嶺南/嶺北」に分かれ、その嶺北は福井市の南縁、越前町と鯖江市の北縁にて「嶺北南部/嶺北北部」とに分かれている。
この嶺北地域の古墳には、時代を経ても一つのエリア内に連綿と途切れずに築造され続けるということと、古墳が比較的標高の高い山の上に立地し、かつ時代を経るにつれてより高い場所に築かれたこと、という全国的にも珍しい特徴があるそうだ。
嶺北北部と嶺北南部とで、築造パターンがシンクロするような様相も見られるという(ただし北部の方が規模や荘厳さで上回る)
具体的には、古墳時代前期に高い標高に前方後円墳がいくつか続いて築かれた後、一旦少し離れた平野部に円墳や帆立貝形前方後円墳が造られ、再び山の上のより高い標高に移って行くという”流れ”。
下記の図で、嶺北北部の免鳥5号墳や泰遠寺山古墳、嶺北南部の郡栄塚古墳や兜山古墳が一旦離れた低い位置に築かれた古墳になる。
なぜ一旦低い位置に来たのか、なぜ前より高いところに向かったのか、なぜ嶺北北部と嶺北南部とでシンクロするのかと、謎は深まるばかりだが興味も深まった。
講義の後に実際に訪ねたのは下記の5つの古墳。4世紀後葉から5世紀中葉にかけての100年内に15~20年おきぐらいに造られている。
このツアーは嶺北南部を代表する古墳を”築造年代順に訪ねる”ことが企画されていて、一旦平地に出てその後に高い標高に上るということを身をもって体験することになった。
講義の後は館内も見学。こちらは番城谷古墳群から出土した円筒埴輪。
その円筒埴輪が出た、番城谷古墳(5号墳)の発掘の写真パネル。
常設展は一般100円。
http://www.town-echizen.jp/spot/spot01Detail.php?406
考古資料のほかにも隣地の劔神社の梵鐘(日本で3番目に古いという国宝)や重文の釈迦涅槃図、戦国大名朝倉氏や織田信長が署判した古文書、日本六古窯である地元の越前焼などが展示されていて見どころは多そうだったが、すぐに出発の時間が来てしまった。
そこからバスで少し山合い入った小西亭へ。豪華昼食付きのツアーで御飯は前方後円形!
十数人の参加者は地元の方々が多かったが、(自分も含めて)遠く名古屋や関西から来られた「古墳好き」の人もいて、昼食会は大変盛り上がった。
バスの車窓。平地の部分は色付きはじめた稲がきれいだった。
瓦屋根が美しい集落。
最初の訪問地は越前町古墳公園。
駐車場でバスを降りて園内へ。案内板に黒い四角が数多く記される。解説には「方墳(39基)と書かれているが、弥生期の墳墓(方形周溝墓)も多く含まれているようだ。
前方後円形に「古墳」と書かれている方形周溝墓。
現地で解説を受けながらの探訪は楽しい。
講演のパワポより。青い矢印の先が上記のポイントになる。
足元の方形周溝墓。
下る斜面にも方形周溝墓が連なる。朝見た王山古墳群と同じような感じ。
振り返った斜面上には古代の家屋風の休息所。
そこから北側へ回り込んでいくと左手に盛り上がりがあった。
後円部にある標柱には「史跡 朝日山古墳群」と刻まれていた。ここはその古墳群中の経ヶ塚古墳。 標高は75mほどの丘の頂上になる。
後円部の円い部分を。
平坦な後円部墳頂。
経ヶ塚古墳は全長71mの前方後円墳で4世紀後葉の築造とされている。葺石、埴輪、段築、周溝はない。
墳頂から西側の斜面。
前方部へ向かう一行。
草木の茂る前方部。
前方部先の斜面。
前方部裾からくびれ部方向。
くびれ部で墳丘上の方々を見上げる。
木が密に”林立”していて眺望は無かったが越前町を見渡せる好立地になる。古墳が"発見”されたのは、麓でカーブする旧鯖浦電気鉄道の車窓からとのことだった。
つづく(4回のシリーズになります)