墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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(山王)金冠塚古墳 群馬県前橋市山王町

金冠塚古墳は、前回の前橋天神山古墳から2kmほど南東にある。 

途中に市史跡の亀塚山古墳があるが当日は準備不足で通過してしまった・・・ 

 

金冠塚古墳は、つばき公園と接している。オリジナルな雰囲気の遊具がある公園。

 

公園からパノラマで。左が前方部、右が後円部。のっぺりした前方後円墳。 

 

前方部右裾から。右奥が後円部。全長は52.5m。

 

後円部の頭の裾に標柱と説明板があった。

 

草が膝丈以上にあったので、望遠で。

前橋市指定史跡 金冠塚古墳
指定年月日:昭和61年6月6日
所在地:前橋市山王町1-13-3
朝倉町から広瀬町、山王町にかけては、かつては、140基を超える古墳があったといわれています。その中で、昭和10年(1935)に行われた群馬県内の一斉調査では上陽村14号墳として記載されています。
山王二子山古墳とも呼ばれていましたが、金銅製の冠が出土したことにより、名称を金冠塚古墳に統一しました。昭和56年(1981)に発掘調査が行われ、全長52.5m、後円部の直径32.3mで、後円部に榛名山二ツ岳起源の軽石(角閃石安山岩)を加工して積み上げて造られた推定全長5.2m以上奥壁の幅2.5mの横穴式石室があったことがわかりました。
大正4年(1915)に出土した金銅製冠は、古代朝鮮半島三国時代の新羅や伽耶で作られていた「出の字」型の冠に似ていることから、このころの朝鮮半島の文化の影響が日本にも強く現われていることがわかります。前橋市教育委員会

 

 2015年に前橋市教育委員会が作成した「群馬の古墳時代はここから始まった 朝倉・広瀬古墳群」には「山王金冠塚古墳」とあり、築造年代は6世紀後半と記されている。

https://sitereports.nabunken.go.jp/16308

上記によれば昭和56年の発掘調査では、2段築成の墳丘からは円筒埴輪や靱、家、大刀、盾、馬、人物などの埴輪が出土したそうだ。

また、山の字を重ねたような立ち飾りを持つ形式の冠は全国でも確実なものはこの1例だけと珍しく、その系譜は朝鮮半島三国時代の新羅王墓である天馬塚や瑞宝塚などに副葬された金冠に求められるとあった。

金銅製の冠は金銅製大帯、馬具類、鉄製甲胃、刀装具類などとともに出土し、一括して東京国立博物館に納められている。

 

後日、東博を訪ねると、その冠の精巧なレプリカがあった(大帯は実物)

 

高さは30~40cmか。確かに「山」を4つ、または「出」を2つ、縦に並べたような意匠。

 

「天馬塚」で検索すると、韓国慶州市の国立慶州博物館のサイトに天馬塚出土の金冠の写真があった。新羅時代、高さ32.5cm。

上に向かって開くような形で、勾玉のような飾りが沢山ついている。

http://gyeongju.museum.go.kr/kor/html/sub04/0402.html?mode=V&dvs_code=&mng_no=59&GotoPage=1

グーグルの翻訳機能のボタンを押すと、しっかりとした日本語になって驚いた。

「金銅冠の下賜を介して地方の首長を懐柔して牽制しようとする中央政府の意図が込められたもの」であり、「5世紀代に最も華やかで、仏教が国家の理念として定着し始める6世紀以降、徐々に退化する」とあった。

 

 

後円部墳頂へ上がらせていただく。

 

後円部から前方部。 

 

振り返って背面から見た説明板。

 

前方部の端からの眺め。奥の緑はこの後訪ねた文殊山古墳。

 

前方部から見た後円部方向。

 

くびれ部のあたりを。

 

前方部左下裾に降りて。

 

前方部の端の斜面。草で隠れた階段があった。

 

木々の向こうが公園。

 

公園には、刈って間もない感じの大きな切り株があった。