墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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釜口古墳と付近の横穴墓 神奈川県中郡大磯町大磯

前回のつづき。日没までもう少し時間があったので、茅ヶ崎から大磯で途中下車(写真多めです)

線路の南側に沿って東へ。

 

駅前にあった大磯町全図。大磯というとビーチのイメージだが、なかなか大きな山塊・高麗山(こまやま)がある。新幹線や東名道は山の北側を、東海道線や国道1号(東海道)が南裾を通る。

 

目的地の釜口古墳は南麓の尾根上にある。

 

 大磯駅から徒歩20分。

 

線路沿いの住宅地を歩く。山裾は宅地造成が住んだばかりの場所もあった。

 

上り道を折りかえすように進む。振り返っての遠望。

 

「釜口古墳」のサインが写真右下にあるが、最初は見過ごした。

 

サインを入ると説明板がある。

 

神奈川県の指定史跡。

神奈川県指定文化財 釜口古墳
昭和29年3月30日指定
高麗山から南西に延びた尾根の東側鞍部に位置しています。江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」の記載により、当時から開口しており、著名な存在であったことがうかがえます。
本古墳の築造時期は古墳時代後期に属しており、石室は大形の凝灰質砂岩製切石を用いて、切り組み積みの手法により構築されています。現存する封土は石室をわずかに覆う程度であり、造営当初の墳丘形態は明らかではありません。
当地周辺に密集する横穴墓群の盟主的位置をしめた古墳であると考えられます。
平成22年3月 大磯町教育委員会

 

そこから古墳まで、もう少し登る。

 

開口部手前にあった旧説明板。

 

読める部分もあるが・・・

 

そこから見上げる開口部。

 

初めは開口部の上からアプローチした。住宅地のどん詰まりへ。

 

その右手に金網に囲まれた一画が。

 

現在の盛土の高さは数十センチ程度。

 

下へ回って見上げた開口部。

 

金網で囲まれて中へは入れない。

 

金網の隙間から。石組みの様子はわからない。

 

ズームで奥壁を。

 

後で調べた「神奈川県の古墳散歩」のサイトによれば、釜口古墳は7世紀末~8世紀初めの径35~40mの円墳と推定されるようだ。石組みの写真も載っている。
http://www.geocities.jp/kanagawa_kohun/oiso_ninomiya/oisonino_1.htm

 

墳丘の上側からは海が望める。

 

別の角度から。現在の家屋や樹木を薄目にして省いて、古代、目の前に相模湾が大きく広がっていたであろう姿を想像した。

被葬者は相模湾の交通・物流を支配していた首長であったように感じられた。

 

古墳の周りには住宅があったが、その先は深山の雰囲気だった。

 

グーグルマップに「前谷原北横穴墓群」と出ているのは右の道。

 

すぐにダートになった。

 

右の崖を見ながら歩く。

 

地図上のポイントを通過してしまった。そこから振り返って。

 

戻るときに穴を発見。

 

 フラッシュで。中へ入るのは躊躇われた。

 

マップにはもう2ヶ所の横穴群があったが、後谷原南とある方は難しそうだったのであきらめた。

昇寛さんのサイトに写真がある。

大磯町後谷原南横穴墓群 » 埼群古墳館

 

自分はそこから引き返して、グーグルマップに印があって道もついている王城山横穴墓群へ向かった。

 

舗装路へ戻って上っていくと大きな屋敷があった。

 

そこを過ぎるとダートに。

 

日没間近で、実際は暗くてブレてしまった。

 

上には神奈川県の配水池があった。

 

横穴墓はその奥らしい。 

 

後ろには立派な碑が。

 

明治天皇観漁記念碑が建っていた。

 

台座から南側。

明治天皇も古代人の首長と同じようにこの山から相模湾を眺めたのか・・・

と思いきや、浜辺で地引網をご覧になられただけのようだ。

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/rekishi/kanryounohi.html

 

碑の奥に看板が。しかしこれには「自然環境保全地域」とあった。

 

後で、王城山横穴墓群の正しい位置はグーグルマップ上の印より100m近く西だということを「神奈川の古墳散歩」のサイトで知った。

このサイトには、近くにある楊谷寺谷戸横穴墓群(県指定史跡!)も含めて見学できるルートがわかりやすく紹介されている(事前に見ておくべきでした)

http://www.geocities.jp/kanagawa_kohun/oiso_ninomiya/oisonino_1.htm

 

昇寛さんのサイトでも。

http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/ooiso_ozyo/

 

大磯駅へ戻る途中で見た高麗山(こまやま) 

釜口古墳などがある場所から600mほど北東に離れた位置に山頂がある。標高は168m。

 

大磯町のサイトには、奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから「高麗山」の名前がついたといわれるとあった。

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/taiken_asobu/shizen/yamaasobi_komayama.html

 

また、検索していたら神奈川県教育委員会等が発行した「平成29年度かながわの遺跡展 群集する古墳 かながわの古墳時代終末期を考える」の資料に行き当った。

下記のような記述が8頁にある。

高塚古墳と横穴墓の被葬者の違いは、墓を造った集団の違いによるものとされますが、前者が地域における伝統的な在地の有力者(在地首長)としてとらえられるのに対し、後者は入植や移住により地域で新たに台頭してきた有力者(新興勢力の長)であると考えられています。

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/ar3/cnt/f6656/documents/914056.pdf

 

 

帰り道は線路に近い道を通った。とても魅力的な道だと思ったら、旧東海道だった。

 

道路脇に広重の東海道五十三次、大磯の絵が。

 

絵の前から西方向。広重の絵の感じ?

 

すぐ先には東海道線。

 

線路の下をくぐった先の道。

 

そこからは線路伝いの細道を。 

 

線路の北側には先ほど登った王城山。

 

アップダウンもあって橋もある、楽しい小道。

 

 大磯駅でほぼ日没。

 

「付近の横穴墓」などとまとめてしまったが、次の機会にきちんと訪ねたい。