墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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富塚古墳 神奈川県横浜市戸塚区戸塚町

前回との関連で。

熱海の花火を見に行く途中、東海道線を3駅途中下車して古墳などを訪ねた。 

最初に降りたのは戸塚駅。 

 

駅ビルの名前は「トツカーナ」

 

バス便も多そうだったが、17分と出たので徒歩で向かう。

そのルートは、国道1号の旧道・東海道だった。


途中道沿いに「東海道戸塚宿 澤邊本陣跡」の標柱が。

 

説明板も。

澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一画に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治2年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。

 

標柱の隣から見た東海道。 

 

本陣跡の脇の枝道を入ると羽黒神社があった。

 

山中の趣き。

 

拝殿前から振り返って。

 

東海道へ戻り、消防署を過ぎると再び参道が。

 

海蔵院というお寺。

 

振り返っての東海道。

 

斜面沿いに細道があった。

 

先へ誘うような階段。

 

石段を上がって南東側、港南台の方向。

 

さらに細道は続いていて住宅地に抜けられた。

 

富塚古墳がある場所は隣の丘にあるようだった。

 

急坂を降りて振り返ったところ。

 

古墳がある丘は、麓を住宅に囲まれていた。

 

こんな段差も。

 

回り込んでいくと墳丘へ向かう階段が。

 

階段上から北西方向。

 

さらにもう少し登る。

 

すると富塚古墳の真裏に出た。

 

りすもいた。

 

幣が付く縄に沿って巡る。

 

南側に「冨塚之碑」と刻まれた石碑があった。

 

平成22年(2010)に横浜市埋蔵文化財センターが墳丘の測量調査を行い、「埋文よこはま」に詳細が載る。

全長32m、後円部径24m、後円部高4m、前方部前端幅8m、前方部高1.5mと、小さな前方部のつく前方後円墳(帆立貝形とは異なる)

同様の形は東京都狛江市の狛江亀塚古墳(40m、5世紀後半)が知られ、また横浜市港北区の綱島古墳(埴輪や副葬品から5世紀後半築造と考えられる円墳)にも東方向に小さな前方部のような高まりがあるようで、富塚古墳の築造年代も両古墳と同じ5世紀と「推定できるかも知れない」とあった。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/myo23.pdf

 

石碑の前は尾根状の地形が続き、下に冨塚八幡宮がある。

冨塚八幡宮にあった説明板によれば、被葬者は富属彦命で、これを富塚と称したことが戸塚の地名由来との言い伝えがあるとのこと。

 

墳丘の前から西側。

 

散策路へ戻る。左が墳丘。

 

古墳の東側は緑溢れる公園になっていた。

 

斜面には建物跡のような平らな部分がいくつかある。

 

さきほどの尾根の先に冨塚八幡宮の奥宮、田町稲荷社。

 

さらに急な階段を下る。

 

民家の裏から東海道へ戻った。

 

通りの対岸から。中央が富塚古墳への入口。案内標識は無かった。

 

そのすぐ南、東海道のカーブに突き出るように冨塚八幡宮があった。

 

 鳥居の先に石段が。

 

鳥居脇に古墳のことも記された御由緒がある。

冨塚八幡宮
御祭神:誉田別命(応神天皇) 富属彦命(とつぎひこのみこと:相模国造二世孫)
例大祭:八月第一日曜日(前日宵宮)
御由緒
平安時代、前九年の役平定のため、源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託と蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久4年(1072)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称したことにより戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社と氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
現在の本殿は天保14年、拝殿は昭和9年の造営になります。
明治6年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。
(後略)

 

石段を上がる。 

 

登って振り返ったところ。

 

拝殿で参拝し、清々しい気持ちになる。

 

拝殿左側に稲荷大明神の祠。先客が導いてくれた。 

 

冨塚八幡宮からの富塚古墳への道はついていないようだった。

 

旧東海道へ戻って戸塚駅へ戻り始めると、最初の信号が八坂神社前。

信号の先に、道路に面して鳥居。

 

石段を上がって振り返る旧東海道。

 

説明板がある。

通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守です。元亀3年(1572)に、牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われています。毎年7月14日に行われる「お札まき」は、無病息災を祈願して市の指定無形文化財になっています。神社脇の東海道と鎌倉道が交差するあたりに高札場がありました。

 

「お札まき」に関する説明板もあった。なかなか興味深いお祭り。

横浜市指定無形文化財 お札まき
平成3年11月1日指定 保存団体:お札まき連中
時期と場所:毎年7月14日 戸塚区戸塚町4189番、八坂神社他町内各所
お札まきは、7月14日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。この踊りは、江戸時代中期、江戸や大阪で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿だけに伝え残されています。
男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。
風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。
神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です。
平成4年3月 横浜市教育委員会

 

この”奇祭”の様子はこちらのサイトに詳しかった。

http://bqspot.com/kanto/kanagawa/119

 

この時はとても静かな境内。

 

集会所では会合が行われていた。 

 

戸塚駅前に戻って 歩道橋から北側の様子。木立は清源院の境内地で、いかにも古墳がありそうな雰囲気があったが、遺跡はないようだった。

つづく。