墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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前山A2号墳と付近からの眺望 岩橋千塚古墳群・前山A地区

前回のつづき。

岩橋千塚古墳群の散策路を資料館から左回りに進むと、将軍塚古墳あたりからが東半分の後半戦、前山A地区になる。

 

周回路を進むとベンチが置かれた展望台があった。 

 

その説明板。

岩橋千塚から北の眺望
岩橋千塚から北には東西に伸びる和泉山地とその手前を流れる紀の川が見えます。古墳時代の紀の川の流路は何本にも分かれており、堤防上に田屋遺跡などの多数の集落がつくられていました。
岩橋千塚を築いた紀氏は、紀の川の水を利用した農業生産力の増大を背景に勢力を伸ばしたものと考えられています。
平成22(2010)年 和歌山県教育委員会

 

和泉山地の山麓までは5km、画面中央の横帯、紀の川までは2kmほど。川のこちら側に田井ノ瀬駅があって、来る途中に寄った高橋神社は中央やや右手前の木立の蔭。

 

コース沿いには、密度は低くなったもののやはり墳丘が。

 

説明板はないが見るからに古墳。 

 

その先の上り道手前に、前山A2号墳の説明板があった。

 

その内容。

前山A地区 前山A2号墳と周辺の古墳
岩橋山塊の稜線上の標高約150m付近には、直径約6m~11mの比較的小規模な円墳が分布しています。前山A2号墳は、横穴式石室をもつ直径約10mの円墳で、平成16年度(2004)に発掘調査が行われました。石室は、玄室(死者を埋葬する墓室)が長さ約1.0m、幅約1.9mと横に長い特徴をもつ小規模なT字形石室で、出土した須恵器などの年代から、6世紀末に造られたと考えられます。なお、この石室はガラス覆屋を用いた施設により公開されています。
周辺には、竪穴式石室をもつと推定される前山A3号墳や、玄室が長さ約1.6m、幅約1.6mの正方形となる小規模な横穴式石室をもつ前山A4号墳などの円墳が分布しています。
平成24年3月 和歌山県教育委員会

 

写真部分のアップ。 

 

道を上っていくと、ガラス覆屋を載せた墳丘が現れた。

 

上に登ると別の説明板もあった。

 

その内容。 

前山A2号墳
古墳時代後期(6世紀末)に造られた直径約10mの円墳です。石室の上部は壊されていますが、小型の横穴式石室が築かれています。
死者を葬る玄室と通路である羨道が「T」字形をしており、岩橋千塚古墳群では珍しい構造です。
石室の入口部分は、石室に対して南に曲って造られていましたが、その部分は保存のために埋め戻しています。
発掘調査をしたところ、通路部に立てられた扉石の外側で、土師器の壺、入口部分で須恵器の杯が出土しました。
平成17(2005)年 和歌山県教育委員会

 

 

ガラスの内側に曇りあり・・・ 

 

反対側から覗き込むと、石室のT字型がよくわかった。

 

手前が羨道、奥が横に開いた玄室になる。

 

 

そばには南側の眺望の説明も。

岩橋千塚から南の眺望
岩橋丘陵の南斜面には西から順に、井辺(いんべ)・寺内・山東地区があり、6世紀後半から7世紀を中心に約150基の古墳が分布しています。
岩橋丘陵の南には和田盆地や伊太祁曽(いだきそ)盆地があり、その先には紀伊山地が広がります。名草山の西には、わずかに和歌裏周辺の海を眺めることができます。
平成22(2010)年 和歌山県教育委員会

 

古墳群は、北側からだけでなく南側からも見通せる丘陵上に築かれていた。

中央やや右に名草山。和歌浦は木の蔭で見えなくなっていた。

 

探索路を振り返って。左がA4号墳。右がA5号墳(のはず)

 

広い散策路に戻る。

 

下り道になって北西の方向が開けた。

 

その先が古墳が密集する前山A地区の核心部分だった。

つづく。