前回のつづき。
県立紀伊風土記の丘の散策路は軽自動車も通れる歩きやすい道だったが、ところどころには登山道のような枝道もあった。
それらを横目に見ながら歩いて行って最初に出会った説明板。
花木園東部地区の古墳
直径約8~9mの4基の円墳で、昭和50年度(1975)に発掘調査が行われました。
古墳は後世に大きく削られてしまいましたが、墳丘の周りに巡らされた溝や、石室の一部が残存していました。前山B225号墳の横穴式石室は、死者を埋葬する墓室である玄室と、そこに至る通路である羨道の一部が確認されました。出土した須恵器から7世紀前半に造られたと考えられます。また、前山B223号墳の石室でも玄室の一部が確認され、装身具である耳環が出土しました。
なお、現在、古墳は埋め戻されており、円形に配置した生垣によりその位置を表示しています。
平成24年3月 和歌山県教育委員会
前山B221~225号墳の円墳が斜面に並んでいるようだった(目の前の円墳がどれに当るかはわからず)
別の角度から。
上って来たので眺めがよくなっていた。
北方向、紀ノ川の向こうは、大阪府との県境となっている和泉山脈。
空を見ていたら飛行機雲。
飛行機雲と古墳群。前山B100・101・102・220号墳。
斜面の上側から。
この4基には周囲に散策路があった。
隣には、まるで人の手で飾りつけたようなヤドリギが。
現地の説明板。墳丘は復元によって形が整えられている。
花木園地区の古墳
直径約12~17mの4基の円墳で、昭和38年度(1963)と50年度(1975)に発掘調査が行われました。埋葬施設は墳丘中央の岩橋型横穴式石室と、隣接して造られた竪穴式石室よりなり、また、前山B220号墳は2基の横穴式石室が並行して築かれています。前山B101号墳の竪穴式石室からは人骨が出土し、壮年の男性が埋葬されていたことがわかりました。
各石室からは、須恵器や土師器、鉄製品、玉類や耳環などの装身具が出土し、出土遺物から古墳は6世紀後半に造られたと考えられます。
なお、現在の古墳は石室が埋め戻され、築造時の姿に復原整備しています。
平成24年3月 和歌山市教育委員会
地図の部分のアップ。
竪穴式と横穴式の両方の石室を持つタイプは珍しいのではないか。
もう一つ説明板があったが、こちらの表示ではK-1~K-4号墳。
ここにある4基の円墳は、1500年から1400年前(古墳時代後期)に作られたもので、紀の川河口一帯に勢力を持っていた豪族のお墓のひとつです。これらの古墳には埋葬施設として横穴式石室が設けられたいましたが、K-4号墳では石室がふたつ並んでいました。また、それぞれの古墳から竪穴式石室がひとつづつ発見されています。K-3号墳とK-4号墳から、銀環、管玉、切子玉、ガラス玉、須恵器(壺・坩・蓋坏)、土師器(壺・坩・椀)、鉄刀子、鉄鏃、鉄鉇、鉄製馬具などが出土しました。これらの古墳は築造時の墳丘を想定して復元しており、ツゲの垣根は古墳の大きさを、立石と階段は石室の入口方向を示しています。
斜面の下側から。手前から前山B101号墳、前山B220号墳、前山B102号墳、前山B100号墳。
前山B101号墳の上から。
重なり合うような前山B102号墳と100号墳。
前山B102号墳から見た220号墳。
前山B101号墳の横穴式石室の位置を示す立石と石段。
前山B220号墳のもの。
前山B220号墳のもうひとつの立石。同墳は横穴式石室を2つ持つ。
前山B102号墳のもの。
前山B100号墳のもの。
古墳のそばで梅も咲いていた。
つづく。