前回のつづき。
浦舟町で横浜駅行きのバスがあったので乗っていると、スマホマップに「古墳跡」が現れたので、途中の浅間下のバス停で下車した。
北側に見えたそれらしき丘に向かう。この場所は旧東海道のルート上だった。
斜面についた階段を登る。
途中に庚申塔がある。
4車線の道路が台地を大きく切り通している。
この先500m程に第三京浜の三ツ沢ICがある。
上り詰めて振り返ったところ。
その先端に軽井沢古墳跡の碑が立っていた。
詳しい説明板があった。
横浜市地域史跡 軽井沢古墳跡
登録年月日:平成12年11月1日
区域:横浜市西区南軽井沢62番の1の一部
軽井沢古墳は、帷子川北側の台地上に所存しています。昭和40年(1965)に発掘調査が行われ、全長26.5m、前方部は幅16m・高さ2.3m、後円部は径19.5m・高さ2.9mをはかる前方後円墳で、3段の墳丘を持つことが明らかになりました。
墳丘からは、2ヶ所の埋葬施設が発見されており、後円部の中央に軟砂岩の切石積みの横穴式石室と前方部の主軸に直交するかたちで硬砂岩切石を用いた竪穴式石室がありました。前者からは、耳環・水晶切子玉、後者からは、鉄刀・刀子・ガラス小玉・須恵器提瓶などが発見されました。
出土遺物から、この古墳は7世紀前半に造られたものであると考えられ、横浜市域では最末期の前方後円墳です。さらに、それまで不明であった南関東の7世紀の前方後円墳の実態を知る上で貴重な資料を提供しました・
平成13年3月 横浜市教育委員会
説明板の写真。後円部先端の向きが北東を指しているとすれば、後ろの団地の左側あたりを切り通して道路が造成されたということか?
※追記:実際の古墳跡は教習所コースの中で、古墳跡の石碑が南西に動いた場所にあることがわかりました(コメント欄参照)
石室に大刀や壺が。
後円部の石室はくびれ部から斜めに入っている。
石碑のある場所は一段高くなっていた。
手摺があったので登ってみた。
前方後円墳之跡と横浜市長の名が刻まれていた。
裏には昭和41年4月の日付けと関東綜合学園の理事長名。
碑の場所からの眺め。グランドは宮谷小学校で、小学校の南東に浅間神社があるが、社殿がある丘の斜面にはかつて20基の横穴墓があったそうだ。
http://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/miryoku/pdf/h22sanpomichi.pdf
古墳の横は自動車学校の車庫。
そのあたりから南東側の眺め。横浜駅まで直線距離で1kmと近い。
少し上にあがると自動車学校(KANTOモータースクール横浜西口校)が。
台地先端の、眺めのいい場所に立地していた軽井沢古墳(跡)
思わぬ出会いになってうれしかった。
ちなみに古墳跡のあるここ軽井沢と、長野県の軽井沢とは、直接の関連は無いようだが、下記のサイトに興味深い話が掲載されていた。