墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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三殿台遺跡 神奈川県横浜市磯子区岡村

三殿台(さんとのだい)遺跡は、縄文時代から古墳時代まで長きにわたって人が集住するムラとして使われてきた丘の上のエリア。

弘明寺駅から階段を上りつめた頂上に遺跡はあった。

 

標高55mの頂上は約1haの平坦地。

 

公式サイトによれば、高台周囲の貝塚が明治30年代に発見され「屏風ヶ浦岡村貝塚」として知られていたが、昭和36年(1961)に隣接する岡村小学校の拡張予定地となったため研究者や市民ら延べ5,000人が参加して遺跡全体の発掘調査を行うと、縄文~古墳期の約250軒の竪穴住居跡が見つかった。弥生時代の住居は170軒近くと貴重な遺跡であるとして昭和41年(1961)に国史跡となり、翌42年(1967)に三殿台考古館が開館して遺跡とともに公開されている。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/sandd/iseki.html

 

地面の杭が住居址の範囲を示している。 

 

遺構の説明板。時代ごとに色分けされているが、パッと見では違いがわからなかった。

遺構表
三殿台遺跡からは、270軒を超す縄文・弥生・古墳時代の竪穴式住居などの遺構が発見されました。竪穴住居跡の大部分は埋め戻されていますが、そのうち平面形や大きさが分かるものは、輪郭を地表面に擬木で表示しています。
重なり合った住居跡の場合には、新しい住居によって壊された旧い住居の輪郭部分は点線状に表現しています。
擬木の上面は、各々の遺構の時代が分かるように次のように色分けされています。
縄文時代(赤) 竪穴住居跡4軒
弥生時代(焦茶色) 竪穴住居跡58軒、溝状遺構2基
古墳時代(黄土色) 竪穴住居跡11軒
横浜市教育委員会

 

 説明板の図。

 

これは発掘も相当大変だったろう。

 

重なり合う様子は杭の展示でよくわかる。

 

中央に竪穴住居跡保護棟があって、ガラス窓から中をのぞける。

竪穴住居跡保護棟
発掘された遺構は埋め戻され、標石で位置と時代が示されているが、この建物の中では、竪穴住居跡が、発掘当時の姿を崩さぬよう化学的な処理がしたる。火災にあって床が焼けた一番大きな竪穴、その床をこわして造られた小型の新しい住居、このような事実からそれぞれの新旧関係を知ることができる。

 

内部の様子。

 

逆サイドから。

 

条件がよいと富士山も望める。

 

南側に時代ごとの住居が復原されていた。

 

こちらは弥生時代の住居。

 

解説板もあった。

竪穴住居(弥生時代中期・紀元1世紀頃)
復原住居(122-A号住居址・宮ノ台式期)
紀元前4世紀頃に大陸から伝えられた稲作の技術は、食糧のすべてを自然界に求めた縄文時代から、農耕生産を基礎とした弥生時代の村落社会を生み出した。この家屋は、三殿台遺跡で発掘された弥生時代のものではもっとも古く楕円形の平面を示し、床の北側に炉が掘られていた。4本の支柱に支えられた入母屋造りである。

 

内部の様子。

 

中から入口の階段。

 

支柱と小屋組み。

 

こちらは縄文期の復原住居。

 

老朽化で見学不可だった。実際の耐用年数はどのくらいだったのだろうか。

 

その説明板。

竪穴住居(縄文時代中期・紀元前3000年頃)
復原住居(10-B号住居址・加曾利E式期)
自然界に食糧を求めて暮した縄文時代の人びとは、こうした日当たりの良い丘の上に数軒で構成されるむらをつくった。この住居は、長い縄文時代の中でも、とくに生活条件のよかった時期で、こうした村のあとは、横浜でも数多く発見されている。家の平面はまるみのある五角形や六角形、または円形に近いものが多く、床の中央に土器を埋めたり河原石で囲んだ炉があり、家の外形は、一般に円錐形と考えられている。

 

住居のすぐ先は見晴らしのよい丘の縁。

 

その隣には、古墳時代の復原住居。

 

その説明板。

竪穴住居(古墳時代後期・紀元7世紀頃)
復原住居(415-C号住居址・鬼高式期)
この地方が大和を中心とする、古代国家の支配下にはいった大化改新頃になっても、農民たちは弥生時代と大差ない竪穴住居に住んでいた。これも4本の支柱で支えられた入母屋造りであるが住居の平面は方形になり北側屋内にかまどが築かれ、米が主食として普及したことを物語っている。

 

入口の様子。外見は他の時代と大差ない印象。

 

古墳時代の住居内部には、立派なカマドがついていた。 

 

内側から。金網の先は南の斜面。 

 

杭は小さな子供たちの楽しい遊び道具にもなっていた。

 

駐車場のそばに学芸員の方が常駐している考古館がある。

 

ひと部屋に、出土物が展示されていた。

 

発掘時の写真パネル。 

 

石器や土器を触れるコーナー。

 

土器の蓋(弥生時代中期)というものを初めて見た。紐で固定とはどうやっていたのだろう。

 

古墳時代の須恵器や土師器。それぞれの説明がわかりやすかった。

・須恵器は、朝鮮半島から伝来した、窯の中で酸素を入れない手法で焼かれた素焼きの土器。粘土中の鉱物が酸化しないので灰色。後に灰釉陶器へと発展。

・土師器は、弥生土器の流れをくむ野焼きの素焼き。奈良・平安まで使われ、中世以降は主に「かわらけ」と呼ばれる小皿が作られた。

 

甑で米を蒸していた様子。今と同じくおいしく食べていたのでしょう。

 

 紡錘車での糸のつむぎ方もよくわかった。

 

展示室のパネルの時代別色分けは直感的に理解しやすかった。

赤とオレンジが弥生時代。

 

周囲の斜面には四方向とも貝塚がある。

 

縄文海進の様子。現在の大岡川の流域に海が入り込んでいた。中央やや左に三殿台。

弥生時代には海が退いた平地に田をつくったのだろう。田の跡は出ていないが、三殿台から米の遺物は出ている。

古墳時代の住居址があるということは、古墳もどこかにありそうだが、学芸員の方にうかがったところ、近辺には見つかっていないとのこと。 

 

また、真水をどのように手に入れていたかが気になったが、丘の斜面に水が湧く場所が(今でも)あるとのことだった。

 

この日は弓矢の的当て体験が行われていた。

 

外の道路から見た岡村小学校との境、右が遺跡。学校拡張時に少し削られている。 

 

4000年の長きに渡って人を魅了し続けてきた「超一等地」は、とても気持ちのよい場所でした。ぜひ一度、「内覧体験」をすることをおすすめします。

 

入場無料、弘明寺駅から三殿台公園循環の市バスがある。5台分の駐車場有。

 https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/sandd/riyo.html