墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

佃島界隈:佃天台地蔵尊・佃小橋・住吉神社・佃島渡船跡 東京都中央区佃

今回も夏の写真で。

昨年8月に佃島界隈を訪ねたときの様子。

 

まずは東京時層地図アプリにあった、明治9~19年に陸軍参謀本部作成地図にある佃島界隈。左下が佃島で水路を隔ててその北に石川島監獄署、さらに北に石川島造船場とある。

 

同じ場所を現在のグーグルマップで。上半分は「大川端リバーシティ」で30階~54階の高層マンションが7棟林立する。

 

佃島の部分を拡大で。ここだけ明治初期の区割りが残っている。右下が有楽町線の築島駅で6番の出口から100mほどで昔からの島エリアに入る。

 

堀の東側の細長いエリアには車道を挟んで数軒の民家が並び、家の帯の間に30mほどの距離の細い路地が何本も通る。こちらは南から数本目の路地。

 

 この路地の中ほどに佃天台地蔵尊が祀られた拝殿がある。驚くのは建物のまん中にイチョウの幹があること(参拝して振り返ったところ)

 

路地の西側から。

 

そこから振り返ったあたりには波除於崎稲荷大明神が鎮座する。

 

その裏手にかつての水路が残る。手間は埋立てられて佃公園となっている。

並び立つ高層マンションが壮観。

 

その高層マンション群を反対側、隅田川上流の永代橋から見るとこうなる。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2017/09/25/000000

 

赤い欄干の佃小橋。

 

橋の北側。右の立て札には「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が埋設されておりますので立ち入ったり掘り起こしたりしないでください。佃住吉講」と記される。

3年に一度、住吉神社の本祭で立てられる大幟の柱が、この水中にタイムカプセルのように埋められているという。3年前の掘り出しの様子がこちらのサイトにある。

http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2015/07/post-2600.html

前回が2015年ということは今年が大祭の年。8月上旬に開催されるようなので行ってみたい(掘り出しの様子も見に)

 

佃小橋を東側から。右のマンションには「日の出湯」の煙突が付いている。

この先を右に進むと住吉神社

 

佃島住吉神社は正保3年(1646)の創建。

鳥居の扁額は明治15年(1882)に作られた陶製で、揮毫は有栖川宮幟仁(たかひと)親王による。

 

神社の一画にあった佃島の由来。徳川家康摂津国佃の漁夫を招いて、鐵砲洲向かいの干潟のこの地に島を築かせたのが佃島の起源になる。

佃島由来
天正年間に徳川家康公が攝津の多田の廟に参詣された時、田蓑島現代の大阪市西淀川区佃町の漁夫等が漁船によって神埼川の渡船と勤めたので田蓑神社にも参拝され、その時田蓑村の名称を佃と改められた。すなわち漁業の傍ら田をも作れという意だった。天正18年家康公が関東へ下降された時、佃村の漁夫三十余名が従えられ、田蓑神社の神主平岡正大夫の弟櫂大夫好次という者が、住吉大神の分神霊を奉載して同行して安藤対馬守、石川大隅守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に鉄砲洲の向の三角州(百間四方)を幕府より賜わり、築島工事を起して正保2年それが完成したので本国の村名を取って佃島と称えることになった。その一部を社地と定め社殿を造営した。正保3年6月29日と記録されている。

 

明治2年再建、44年に改築された水盤舎(おみずや)

 

水盤の裏には天保十二年 白子組と刻まれており、木綿問屋組合によって1841年に寄進されている。

 

こちらも境内にある石碑、鰹塚。 

 

昭和28年に東京鰹節類卸商業協同組合によって建立された。

鰹塚
鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木(かつおぎ)」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(701年)「養老律令」(710年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存食、調味料としても利用としてきました。
東京鰹節類卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和28年5月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員96名の積み立てによる浄財でまかなわれました。
塚石は鞍馬石(高さ7尺、幅4尺)、台石は伊予青石(高さ3尺)であります。
表面の揮毫は、日展審査委員で組合員・鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。東京鰹節類卸商業協同組合

 

神社の参道を西に進む。隅田川堤防前にも鳥居がある。

 

堤防側から振り返った参道。

 

その左手のビル群。

 

右手には立派な木造家屋があった。

 

堤防からは隅田川。佃大橋の向こうには聖路加タワー。

 

足元には佃島渡船の碑が。

 

その説明板。昭和39年に佃大橋がかかるまで、最盛期で一日平均1万6千人(!)が利用した。

佃島船場
所在地:中央区佃1-2-4、湊3-18先
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰付近)との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣や花見見物などの人々に利用されました。
明治時代には渡し賃が一人五厘であったことから「五厘の渡し」と呼ばれました。大正15年(1926)に渡船の運営が東京市に移ってからは定期的に運航されるようになり、昭和2年(1927)以降は有料の手漕ぎ渡船から無料の曳船渡船となりました。同年、渡船場の諸施設が整ったことを記念して、佃一丁目と湊三丁目にそれぞれ石碑が建てられました。
昭和31年(1956)には一日平均60往復、1万6000人もの利用者がありましたが、昭和39年(1964)8月に佃大橋が完成したため、佃島の渡船は廃止されました。
佃島船場跡は、渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区文化財に登録されています。
平成28年3月 中央区教育委員会

 

現地の地図(右が北)。佃島渡船跡の碑は対岸にもある。

 

地図の下部にも、わかりやすい解説があった。

佃島の歴史
佃島は江戸時代初期、摂津国佃村と大和田村の漁師たちが鉄砲洲沖の干潟を拝領して埋め立て、漁師町を形成しました。漁師たちは将軍に白魚献上の御用を勤めました。佃煮が生まれた地としても知られ、現在も3軒の佃煮屋が営業しています。関東大震災、戦災の難をまぬがれたため、長い年月の変容も受けながらも昔のたたずまいを今に残しています。

住吉神社
住吉神社は、江戸時代初期に摂津国佃村の漁師たちが江戸に移住したのち、大阪の住吉神社を分社し、1646年に現在地に創建した佃島の鎮守社です、以来、佃島の人びと、水運関係の人びとから厚い信仰をうけています。正面鳥居に掲げられた陶製扁額(区民有形文化財)は、有栖川宮幟仁親王の揮毫によるものです。

 

このあたりには昔ながらの佃煮屋さんが残っている。

 

玄関先や路地に井戸も。

 

 

いい雰囲気の木造店舗。

 

木造民家も何軒か残る。

 

一方で更地になったところも。

 

戦災を免れた貴重なエリア、開発があったとしても雰囲気がかわらない形であることを願います。