江之浦測候所を訪ねた日、道筋(?)にあったいくつかの古墳へも立ち寄った。
真土大塚山古墳(しんどおおつかやまこふん)は古墳時代前期(4世紀)に築かれたと考えられる古墳。昭和30年代まで残っていたものの開発で消滅し、今は元の場所から100m北の古墳公園に復元墳丘がある。
位置は平塚駅のほぼ真北、現在の海岸線から約5kmの距離で、相模川と渋田川(花水川の支流)との間になる。
かつてはこのあたりまで相模湾の海岸線が来ており、真土大塚山古墳は相模川河口の砂丘上に築造された。
現地の説明板。左下はかつての墳丘のミニ模型。
真土大塚山古墳
平塚市真土字十四ノ域にありましたが、現在は消滅しています。
この古墳は古墳時代前期(4世紀)に造られたもので、相模川西岸に生成された砂丘列の最高所(標高19m)に立地していました。墳形は円墳、前方後円墳、前方後方墳ともいわれますが定かでなく、また墳丘の規模も明らかではありません。
埋葬施設には生前被葬者が所有したと思われる様々な品物が副葬され、被葬者の権威を象徴する三角縁四神二獣鏡、変形四獣鏡のほか、飾り金具に用いられた巴形銅器や装身具である玉類(勾玉・丸玉・管玉・硝子玉)、道具や武器に用いられた鉄斧・鑓鉋・銅鏃・鉄剣・鉄刀などが出土しました。
この古墳は、相模国の前身であるサガムの国を支配していた豪族の墓を考えられ、土地の名称から真土大塚山古墳と名づけられました。現在、相模国の中では最も古い古墳と考えられています。
古墳はこの公園のすぐ南にありましたが、今日の景観からはその面影を偲ぶよすがはありません。このため公園を造るにあたっては、古墳が立地していた地形をモデルにし、真土地区の原風景を再現することにいたしました。
三角縁四神二獣鏡
三角縁四神二獣鏡は、縁の断面が三角形になっていて、主文様に4人の神像と2頭の獣像が施される鏡のことで、中国からの舶来品といわれています。
真土大塚山古墳から出土したこの鏡は、直径は22.1cmで、「陳是作鏡甚好、上有王父母、左有倉龍右白虎 宜遠道相保」の文字が刻まれていました。これらの文字は平塚にもたらされた最初の文字と考えられます。
この鏡と同じ鋳型でつくった鏡は、京都府椿井大塚山古墳、岡山県備前車塚古墳、兵庫県権現山51号墳から出土しています。なかでも椿井大塚古墳は、大和朝廷の中枢に近い人物の墓とみられ、32面もの同種の鏡が出土しています。こうしたことから真土大塚山古墳の被葬者は、この地方一円を支配する一方で、大和朝廷と特に深い関係のあった大豪族であろうと考えられます。
なおこの鏡は、現在東京国立博物館にて保管されています。タイムカプセル
真土大塚山古墳の再現を記念して、真土小学校・真土地区連合自治会・工事請負業者・平塚市において、タイムカプセルを古墳山頂の方位盤下に埋蔵し30年後に開封することとしております。1990年4月吉日
調査で出土した三角縁四神二獣鏡や巴形銅器の画像は、東博のサイトで見ることが出来る。
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0015832
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0015833
平塚市博物館のサイトにも詳細な解説があるが、墳形については諸説あって現在は「前方後方墳」の説が有力となっているそう。
http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/kouko/shinoh1.html
復元墳形をグーグルアースで。左側が裾広がりに見えるので前方部となるのか。
その前方部墳頂近くから。右奥の後方部(?)墳頂より高く盛られている。
中央の石は方位と主な目標物が刻まれている。
こちらが墳頂から西側。
ズームすると富士山が。山頂までの距離約56km。
富士山はほぼ真西になるので、春分・秋分では富士山頂に日が沈む様子がここからよく見えるのではないか。
パノラマで西から北西方向。
三角がきれいな大山は北西に約14km。
こちらは”後方部”方向。東向きだが、やや東北東に傾いている。
南方向。すぐ先の家が建て込んでいるあたりに、かつてオリジナルが立地していた。
くびれ部から前方部。
振り向いて、くびれ部から"後方部”
”後方部”墳頂から前方部。
ズームすると前方部右肩の先に富士山が。
"後方部”の裾に下りて。(右が前方部)
前方部の裾からパノラマで。(右が先方部)
南側の住宅地に向けては少しばかり土地が上がっていた。
かなり読めなくなっている公園内の説明板からは、この地が湿地であることが伝わってきた。
さきほどの平塚市博物館のサイトでは、当古墳が集落が少なく生産性の低い砂丘地に造られた理由として、同様に生産性の低い場所に立地する長柄桜山古墳(4世紀後半)を例に挙げながら、「ヤマト政権が東国支配を推進する手段として海に面した東海道ルートの要として河川の河口付近を押さえ、軍事的拠点と位置づけたのでは」との仮説を提示していた。
その道筋は古事記などでヤマトタケルが辿るところでもある。
http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/kouko/shinoh2.html